・当館は武田信春の居館として築かれたとされ、地名に因み「千野館」とも呼ばれています。
武田信春は南北朝時代に甲斐源氏11代当主で、武田家8代当主、甲斐守護職である武田信成の子供として生れ、応永元年に信成の死去に伴い、甲斐源氏12代当主と武田家9代当主、甲斐守護職に就任しています。
信春は北朝方に与し、文和4年には柏尾山周辺で行われた南朝方との戦では勝利を収めています。
信春は社寺の保護を多数行った形跡が見られ、国宝に指定されている大善寺本堂の附となっている厨子は文明17年に信春が寄進したもので、木造役行者倚像は当初、御坂山上に安置されていたものの、信春が大善寺の境内社六所明神社に遷したとされます。
その他にも金剛寺は信春が開基、広済寺は信春が中興したとされ、向嶽寺には田原郷深田村ノ光沢分の27寛文の寺領が寄進されています。
「甲斐国志」や「塩山向嶽禅菴小年代記」によると応永20年に発生した逸見氏の反乱により武田信春館(千野館)が落城し、信春は萩腹山に落ち延び、そこで柳沢に砦を築きそこを本拠地としています。
当時の臨済宗の僧侶で京都相国寺二十三世西胤俊承が筆した「真愚稿」によると、信春は同年、柳沢砦で死去したとあります。
信春は遺言で、館跡に庵を設けて埋葬して欲しいとの遺言から、自徳庵が開創され、その後、境内には戒名の「護国院伝華峯法春大禅定門」に因み「護国院殿」の供養塔(宝篋印塔)が建立され、本堂には位牌が安置されています。
又、生前庇護していたと思われる法城山観音寺にも信春の位牌が安置されています。
武田信春館は東西約100m、南北約147mの単郭で、周囲を堀と土塁で囲っていたと推定され、馬場街道は、信春の家中が兵馬の訓練で利用した馬場跡とも云われています。
周囲に見られる水路が堀の跡とも云われ、東側の水路は千矢堀、正面の水路は千貫堀と呼ばれ、僅かに見られる土盛が土塁跡と見られています。
北西の隅には鎮守とされる橋立天神が鎮座しています。
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