・田安陣屋は延享3年に徳川宗武が当地にあった知行地の行政機関として設けたものです。
徳川宗武は江戸幕府第8代将軍である徳川吉宗の次男として生れ、享保16年に江戸城田安門内に屋敷及び賄料3万俵を賜った事から田安徳川家を立て、「田安」姓を掲げています。
延享3年賄料として武蔵国、上野国、甲斐国、和泉国、摂津国、播磨国内に10万石が安堵されています。
甲斐国内の内訳は山梨郡28ヶ村、八代郡35ヶ村、合計63ヶ村、3万41石で、さらに天保3年には巨摩郡44ヶ村が加増されています。
田安陣屋は上記の行政の中心拠点として機能し明治3年まで続けられています。
陣屋には田安家から代官が派遣され、特に田中蕉園は名代官として知られています。
蕉園が赴任する2代前の代官の横田平五郎は不正を行い罷免、その跡を継いだ山口彦三郎は以前より太桝で年貢米を計った事から、農民達から見ると増税となり、太桝騒動と呼ばれる農民が幕府に強訴する事件に発展しました。
結果的に錦塚村の重右衛門と金田村の重右衛門は獄門、熊野村の勘兵衛は死罪となり、多くの首謀者が処罰され田安家の地方役だった山下次助も追放されています。
小島蕉園は領民に「孝経」を講義したり、孝婦を表彰する等、領民の懐柔に勤めたり、産業育成に尽力、さらには率先して減税を求め、領民達からも慕われ、大正7年には敷地内に「小島蕉園翁頌徳碑」が建立されています。
明治維新後に陣屋が廃止になると敷地は桑畑として利用され、その後は宅地として造成、現在は陣屋の東側に設けられた石垣の一部と、その頂部に陣屋の守護神として奉斎された水上稲荷社が鎮座しています。
田安陣屋の跡地は貴重な事から山梨市指定史跡に指定されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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