【 概 要 】−武田信成は甲斐守護職、甲斐武田家10代当主武田信武の嫡男として生まれました(信武は甲斐と安芸の両国の守護で当時の情勢から信成は安芸で生まれたと推定されています)。1359年(南朝暦:正平14年・北朝暦:延文4年)、信武の死去に伴い信成が家督や役職を継いだと思われます(安芸守護職は弟である武田氏信が引き継いでいます)。信武は南北朝時代の武将で足利尊氏に従い北朝に属していた事から信成も北朝方として行動し、度々南朝方の武将との合戦に及び、一蓮寺(山梨県甲府市)や大蔵経寺(山梨県笛吹市)、観音寺(山梨県笛吹市)、向嶽寺(山梨県甲州市)に対して保護を行っています。
武田信成は赤甲城(所謂「武田信成館」:山梨県東八代郡八代町北字大庭)を本拠として甲斐国の行政を行っていましたが、応永5年(1398)信成が信濃国遠征中に赤甲城が攻められ落城、奥方は屋敷内にあった井戸に身を投げ自ら命を絶ったと伝えられています(赤甲城の跡地には信成の跡を継いだ信春が応永17年:1410年に母親の菩提を弔う為に清道院を創建しています)。※良く判りませんが信成は応永元年(1394)に死去した事になっており上記の話とはズレがあります。
武田信成の墓碑がどこにあるのかは判りませんが、当時、栗原郷の領主とされる「栗原殿」が武田信成の菩提を弔うため「山梨郡栗原郷之内田二町土貢八貫文」を向嶽寺に寄進している事から、信成が永和4年(1378)に自ら開基となり寺領や本尊を寄進した向嶽寺が菩提寺だった事が窺えます。又、応安6年(1373)に信成が臨済宗の寺院として中興開基した観音寺には位牌(法名:継続印殿雪窓光公大禅定門)が安置され、松泉寺(山梨県甲州市)には信成のものと伝わる五輪塔が建立されています。
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