・谷戸城は平安時代末期頃に源清光のよって築かれた推定されている中世の城郭です。
源清光は甲斐源氏2代目当主源義清と源兼宗の娘との子供呂として常陸国那珂郡武田郷に生れましたが、義清が一族の佐竹氏に大敗した為、甲斐国八代郡市河荘に父親と共に流されています。
その後、甲斐国北西部に位置する逸見荘に進出し「逸見」姓を掲げ、久安5年に義清が死去すると家督を次、現在の山梨県北杜市長坂町に居館を設け、その詰城として谷戸城を築城したと云われています。
ただし、甲斐国志によると清光は元治元年に当地で死去したとの記載があり、こちらが正しければ谷戸城は清光が築いたものでは無く、鎌倉時代初頭頃に築城されたと考えられます。
「吾妻鏡」によると「十五日、甲子、武田太郎信義、一条二郎忠頼巳下、討得信濃国中凶徒、去夜帰甲斐国、宿干逸見山、而今日北条殿到着其所給、被示仰趣於客当云々、」と記されており、武田信義は一条忠頼等が信濃国に出兵し賊を平定した後に逸見山に入り、北条氏招き入れた事が窺えます。
ここで記されている逸見山が谷戸城であるとも云われ、その有力候補地の一つとなっています。
その後、谷戸城が資料で現れるのは戦国時代の天文17年で、「高白斎記」によると武田晴信(信玄)は前山城(長野県佐久市)の攻略の為に当地まで進軍した際、「矢戸御陣所」で宿泊した事が記されており、この「矢戸御陣所」が谷戸城の事とも云われています。
天正10年に発生した「天正壬午の乱」では新府城に布陣した徳川家康に対する為、小田原北条氏が若上子城に入り、その軍勢が周囲の支城に布陣、谷戸城もその一つとして利用されましたが、その後の記録が無い事から、戦が終結するとそのまま北条軍は引き上げ廃城になったと思われます。
谷戸城は山の頂上部に設けた一の廓を中心に同心円状に二の廓、三の廓があり、それを取り囲むように帯廓、北の突端には四の廓、東の突端には五の廓、西の突端には六の廓が配されていました。
現在でも郭の形状や土塁、空堀等の遺構が良好に残され、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
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