・一条氏館が何時頃築城されたのかは判りませんが、戦国時代に武田信龍によって築かれたとされ地名に因み上野城とも呼ばれています。
武田信龍は甲斐守護職の武田信虎の子供(8男)として生れ、武田信玄から見ると弟に当たる人物で、武田家の一族で以前は甲斐国守護職を務めていた事もある一条家(鎌倉時代に断絶)の名跡を継ぎ、一条右衛門信龍を名乗りました。
信龍は信玄の代騎馬百騎を預る侍大将として活躍する一方で主に外交を担当し、本願寺や松永久秀等と遣り取りが行われ、武田二十四将の1人に数えらえました。
川中島合戦で、武田信繁が討死すると、兄の武田信廉と共に武田家を支える立場となり、副将格に格付けられ信玄をよく補佐しました。信玄が死の淵で発した遺言により信龍が武田勝頼の後見人になっている事からも篤く信頼されていた事が窺えます。
天正3年に発生した長篠の戦では殿を勤め、勝頼が戦線を離脱するまでの時間を稼ぎ、その後自身も撤退に成功しています。
天正10年の武田家滅亡の際には僅かな手勢で、穴山信君から手引きされ駿河路から侵攻した徳川勢1万を一条氏館で迎え撃ちましたが、子供の一条信就と共に壮絶な最期を遂げています。
一条氏館は蹴裂神社境内付近とされますが、明瞭な遺構は無く、微地形に沿って設けられた擁壁や段差等が城跡らしい雰囲気があり、馬場、門前、物見塚等の地名が散見されます。
境内には城跡を示す石碑や、一条信龍を祀った石祠があり、隣地には長浜城(滋賀県長浜市)を模した模擬天守閣が聳えています。
一条氏館(上野城)の城跡は貴重な事から市川三郷町指定史跡に指定されています。
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