・小笠原長清は加賀美遠光の次男として生れ、甲斐国巨摩郡小笠原郷に配された事から「小笠原」姓を掲げました。
当初は平知盛の被官だったようですが、源頼朝が挙兵すると、頼朝に従ったようで、治承4年に発生した富士川の戦いでは源氏方として参陣したとされます。
旧平家の被官だった事から、平家方の武将の懐柔や勧誘、仲介役で功績を挙げています。
その後も源平合戦で戦功を挙げ、父親の跡を継いで信濃守に補任され、武田信光、海野幸氏、望月重隆と共に「弓馬四天王」に数えられました。
鎌倉時代には御家人となり、承久3年に発生した承久の乱では幕府方の東山道代将軍に抜擢され、その功績の大きさから「七ケ国管領」となっています。
上皇方の源有雅を甲斐国山梨郡稲積荘小瀬村で処刑、その後、阿波国守護に就任しています。
又、弓馬術礼法小笠原流の祖でもあり、建久4年に鶴岡八幡宮に奉納された流鏑馬では長清も射手の1人に選ばれています。
小笠原長清館は現在の小笠原小学校一帯として推定され、江戸時代末期に編纂された「甲斐国志」には「御所ノ庭 村ノ西ニ在リ松樹鬱蒼方四十間許リノ間地ナリ相伝フ小笠原長清居宅ノ南庭ニニシテ・・・」と記されており、小笠原小学校付近が「御所ノ庭」とされます。
現在は小学校の校庭や住宅街として整備された為、目立った遺構は失われています。
小笠原長清館の跡地は貴重な事から南アルプス市指定史跡に指定されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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