・武田金吾がどの様な人物だったのかという定説はありませんが、武田左衛門尉信宗こと、栗原金吾信宗という説があります。
栗原氏は甲斐源氏11代当主、武田家8代当主、甲斐国守護職武田信成の子供である武続が甲斐国東郡栗原郷に配された事から地名に因み「栗原」姓を掲げたのが始まりとされます。
上栗原に境内を構えている海島寺と中栗原に境内を構えている養安寺、下栗原に境内を構えている大翁寺は栗原氏の菩提寺とされ、養安寺と大翁寺は栗原氏の居館跡とも云われています。
当地は栗原郷の隣地でもあり、栗原氏一族が居館を設けても不思議ではない所に位置しています。
信宗の兄である栗原信遠は明応元年から武田惣領を巡る武田信縄と油川信恵の対立で信恵方の有力武将だった事から信宗も兄に同調したと思われます。
明応7年に信縄方優位で和睦が成立し、明応10年に栗原一族が粛清され、信遠は自刃しています。
関係性は判りませんが、信宗も永正6年に死去し、長子である新五郎新由が跡を継いだと思われます。
武田金吾屋敷は光福寺境内一円とも云われ、江戸時代後期に編纂された「甲斐国志」によると屋敷跡には60間(約109m)四方に土塁と堀の遺構があったと記されていますが、現在は目立った遺構を見る事が出来ません。
山梨県:城郭・再生リスト
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