・寛政7年に清水徳川家の初代である徳川(清水)重好が死去すると、子供がいなかった事から断絶となり、領地も没収され甲斐国内の清水家領を支配する行政施設である陣屋も廃止されました。
寛政10年に一橋徳川家の当主である徳川治済が老中の松平信明に抗議する等、清水家の再興を求める声も大きく、結果的に11代将軍徳川家斉の五男である敦之助に清水家の名跡を継がせ再興しています。
しかし、敦之助は翌年僅か4歳で病没した事から文化2年に異母弟の斉順が家督を継いでいます。
斉順は文化13年に奇襲徳川家の徳川治宝の養子になった事から、異母弟の斉明が家督を継ぎ、斉明が文政10年に死去すると、さらに異母弟の斉彊が家督を継ぎました。
文政13年に清水徳川家に対し、甲斐国内に再び知行地が安堵された事から、天保2年に当地に陣屋が構えられています。
弘化3年に斉彊が紀州徳川家の家督を継ぎ紀州藩12代藩主に就任すると清水家の当主は再び不在となり、安政3年には陣屋も廃止になったようです。
陣屋は「城の腰」と呼ばれる地にあったとされ、現在は多くが葡萄畑となり僅かに石垣と堀の一部が残されています。
清水陣屋は貴重な事から山梨市指定史跡に指定されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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