・安田義定館が何時後築城されたのかは判りませんが、西願寺境内一円が安田義定の居館だったと伝えられています。
安田義定は甲斐源氏初代当主源義光の子供である源義清、又は孫である源清光の4男とされる人物で、甲斐国山梨郡八幡荘安田郷に配された事から「安田」姓を掲げました。
義定は山梨郡八幡荘、牧荘、安多荘等を根拠地として笛吹川流域の峡東一帯に版図を広げ、現在の保田山妙音寺、又は安田山西願寺の境内付近に館を構えたとされます。
治承4年に源頼に同調した甲斐源氏一族は平家方で甲斐国に侵攻した俣野景久や橘遠茂等を撃破し、波志田合戦にも勝利、義定も参戦した事が「吾妻鏡」に記されています。
同年に発生した富士川合戦でも敵の背後を襲撃する等の功績を挙げ、遠江国守護職に就任しています。
寿永2年に義定は上洛を果たし、大内裏守護となり、源義経や源範頼と共に、木曽義仲の追討に尽力しています。
その後も、平家追討戦では平経正や平師盛、平教経等を討ち取る戦功を挙げ、文治5年に発生した奥州合戦にも従軍しています。
しかし、源頼朝は勢力が拡大した甲斐源氏一族を次々と粛清しはじめ、建久4年には義定の子供でる安田義質が院の女房に艶書を送った事が問題視され斬首となり、義定も連座し遠江守護職を解任され所領も没収となっています。
さらに、建久5年には謀反の疑いで梟首、又は「馬木庄大井窪大御堂」で自刃しています。
西願寺が館跡と目されていますが、目立った遺構はありません。
山梨県:城郭・再生リスト
|