・当館は室町時代中期頃に武田信成の居館(赤甲城)として築城されたと推定されています(別説によると武田信守の居館とも)。
武田信成は甲斐源氏10代当主武田信武の嫡男として生れ、南北朝の動乱の際には足利尊氏に与し、甲斐国守護代として甲斐に入部しています。
観応2年に発生しら観応の擾乱の際には尊氏に随行し箱根・竹下の戦いや武蔵野合戦に参陣し武功を挙げています。
正平14年/延文4年信武の死去に伴い甲斐源氏11代当主、武田氏8代当主、甲斐国守護職に就任しています。
応永5年に信成が信濃国に遠征している最中に、敵方に攻められ当館は落城、奥方は館内にあった井戸に身を投げたと伝えられています。
応永17年には跡を継いだ武田信春が母親の菩提を弔う為、館跡に虎渓道竜禅師を招いて菩提寺を開創し母親の戒名「清道院殿」から寺号を清道院に定めています。
境内には清道院殿が身投げをしたと伝わる古井戸や、清道院殿の墓碑、信成が植樹したと伝わる松等が残されています。
境内周辺には土塁と思われる土盛や空堀と思わる窪地や水路が残されています。
山梨県:城郭・再生リスト
|