・甘利氏館が何時頃築城されたのかは判りませんが、平安時代末期頃に甘利行忠が居館として築いたのが始まりとも云われています。
甘利行忠は新羅三郎義光の曾孫で甲斐源氏4第当主、武田家初代当主である武田信義の子供 一条次郎忠頼の次男行忠が甲斐国巨摩郡甘利荘に配された事から、地名に因み「甘利」姓を掲げ甘利氏の祖になった人物です。
一条忠頼は甲斐源氏一族として源頼朝に従っていた事から行忠も同調していたと思われますが、元暦元年に頼朝の刺客により鎌倉で暗殺され、行忠も捕縛、常陸国に流され殺害されています。
理由は明確になっていませんが、頼朝は大きな勢力となった甲斐源氏一族を快く思っていなかった節があり、その勢力削減政策の一環とも見られています。
これにより甘利家宗家は断絶し、甘利荘は鎌倉幕府執権北条氏の得宗領になった事から当館も廃された可能性があります。
鎌倉幕府が滅亡すると甘利荘は甲斐武田家の所管となり、戦国時代には甘利虎泰と甘利昌忠が武田家の家臣として名が見られるようになります。
両人と甘利行忠との関係性は不詳ですが、甘利氏館跡の調査の結果、戦国時代の遺物が発見されている事から両氏が居館として利用していたと思われます。
特に昌忠は武田信玄の重臣として知られ、木曽や上野の国人領主達の取次役として活躍しています。
館の跡地には永禄10年に死去した甘利昌忠の菩提を弔う為、3男が出家して池上本門寺日惺上人に師事し、慶受院日国聖人として大輪寺を開山しています。
甘利氏館は大輪寺の境内や住宅地、田畑等として整備された為、目立った遺構は失われていますが、北門や的場、大庭、大堀といった地名が当時の名残とされます。
山梨県:城郭・再生リスト
|