・浄古寺城は平安時代末期頃に安田義定が居館として築いたのが始まりとされます。
鎌倉時代の弘安年間には二階堂氏が当城を利用したとも云われ、近くには二階堂四良右衛門道蘊と足利尊氏の宝篋印塔が建立されています。
伝承によると、後二条天皇の御代に夢窓国師が当地で錫を止め、草庵を設け浄居庵と名付け布教を始めした。
当時の領主だった二階堂道蘊は夢窓国師を篤く帰依すると、国師の為に浄居寺を開創し、これが地名や城名の由来になったとされます。
戦国時代になると武田家の支配下に入り、天文17年には領内の北方防衛の拠点とする為、当地の土豪である大村氏に命じて浄古寺城を修築しています。
その後は武田家に従った大村加賀守や大村伊賀守が城主を歴任しています。
天正10年、織田徳川連合軍が武田領に侵攻し武田勝頼が自刃すると、大村家を中心とする当地域の土豪達は小田原北条氏方に与し徳川家に抵抗した為、徳川の大軍が攻め寄せ、当時の城主である大村伊賀守はじめ多くの木村家一族が命運を共にしています。
当地が徳川領になると浄古寺城には家臣である内藤三左衛門信成が城代として配され、天正17年には近代城郭へと拡張整備が行われています。
しかし、天正18年に徳川家康が関東に移封となり、新たに甲府城が築城された事から程なく廃城になったと思われます。
浄古寺城は笛吹川と鼓川が合流する比高約20m程の高台に位置する平山城で、東西約300m、南北約430mの規模を誇ります。
最高地に設けられた本丸には天守台が設けられ、二ノ丸、三ノ丸で構成され、二ノ丸には鎮守社である八幡神社が鎮座しています。
現在も郭の形状や土塁、空堀の一部が残されており、貴重な事から山梨市指定史跡に指定されています。
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