・屋代氏館は慶長19年に甲斐国巨摩郡1万5千石を真田隠岐守信昌と三枝平平右衛門と共に知行し、郡内(三之倉・神取・若神子・日野・小田川等)6千石余を領した屋代越中勝永が上神取に入部した際に居館として築いたとされます。
屋代氏は信濃国更級郡の豪族で一族である村上氏に与していましたが、戦国時代に武田信玄が信濃国を席捲すると、当時の領主である屋代志摩守正国は武田家に従うようになりました。
正国には正長という嫡男がいましたが、長篠の戦で討死した為、養子として秀正(勝永)を迎え、屋代氏の家督を継いでいます。
天正10年に武田家が没落すると、屋代勝永は織田家家臣の森長可に仕えましたが、本能寺の変で織田信長が死去すると、長可は自領に撤退した為、上杉景勝に転じ海津城(松代城)の城将等を担いました。
しかし、上杉家に対して反乱を画策した事が露呈した事から、上杉家家臣の上条政繁に攻められた為、徳川家家臣酒井忠次を頼って落ち延び、徳川家に属しました。
その後は各地の主要な合戦に従軍して軍功を挙げ、特に慶長19年の大坂の陣では旗奉行を勤め、元和8年には徳川忠長の附け家老として小諸城(長野県小諸市)の城代に就任、最終的には1万石を領しています。
跡を継いだ屋代忠正は寛永9年に主家である徳川忠長が改易になった事を受け連座し、甲斐と信濃にあった領地が没収され屋代氏館も廃城になったと思われます(忠正は寛永13年に赦免され、寛永15年に安房国一万石が与えられ北条藩を立藩しています)。
現在も土塁の一部や、堀の形状の一部、方一町の屋敷構えの地割等が残され、貴重な事から北杜市指定史跡に指定されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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