・曲淵屋敷が何時頃築城されたのかは判りませんが、曲渕氏の居館だったとされ、跡地には屋敷神だったと伝わる若宮八幡宮が鎮座し、近隣には曲淵氏の菩提寺である清泰寺が境内を構えています。
曲淵庄左衛門吉景は武田信虎、信玄、勝頼の3代に仕え、特に信玄の時代には重臣だった板垣信方の被官に抜擢され、板垣家中では筆頭格で、足軽大将にもなっています。
信方が死去すると、嫡男の信憲が跡を継ぎましたが、不行跡が重なったl事から武田信玄の命で甲斐国から追放された為、吉景は山形昌景に仕え、弘治3年に行われた信濃平倉城の攻防戦でが城主である飯森春盛を討ち取る戦功を挙げ、「采配御免衆」にも名を連ねました。
天正10年に武田家が滅びると徳川家に仕え、天正壬午の乱や小田原合戦、関ヶ原の戦いでは徳川家に従軍し、その後は甲府城番等を担い500石が安堵されています。
曲渕景衡の代には常陸国や三河国にも所領があり、合計で1千650石程の寄合旗本となり、その後は小普請支配を経て、甲府勤番の支配役を担っています。
その子供である曲淵景漸は大坂西町奉行や江戸北町奉行等を歴任し、名奉行として名を馳せています。
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