・栗原氏館は応永年間に栗原武続によって築かれたと伝えられています。
武続は甲斐源氏11代当主、武田家8代当主、甲斐国守護職の武田信成の子供として生れ、甲斐国東郡栗原郷に配された事から地名に因み「栗原」姓を掲げました。
その後は武田家の有力一族として武田家を支え、嘉吉元年には武田信重に随行し上京しています。
しかし、次第に独立性を強め、戦国時代には激しく対立するようになり、武田家と敵対関係だった油川信恵みに加担した事で、明応10年に栗原信遠が武田信縄から粛清されています。
これにより、栗原氏は一族で信縄方に与した栗原式部大輔が栗原宗家の名跡を継いでいます。
しかし、栗原信友や栗原信重等は引き続き武田家に対して反乱を続け、万力の戦いで敗北すると信重が降伏、これにより武田信虎の甲斐統一が成っています。
その後は武田家の家臣として仕え、栗原伊豆守信友、栗原左衛門佐昌清等が活躍しますが、天正10年に武田家が滅亡すると、徳川家に転じたようで、天正壬午起請文には「栗原日向守昌次」と栗原衆の同心26名の名が見られ、栗原内記が徳川家康から本領である栗原郷を安堵されています。
栗原氏館は栗原山大翁寺境内を中心とした広大な地域だったとされ、近隣にある海島寺や妙善寺、大法寺の境内も含んだとも云われています。
大翁寺山門近くの水路が堀の跡、近隣の藪が生えている土盛が土塁跡と目されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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