・鎌田氏館は鎌倉時代に当地に配された鎌田兵衛尉為成が居館として築いたと推定されています。
鎌倉時代初期までは、当地の領主は古都氏でしたが、建暦3年に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である和田合戦が勃発すると、古都氏は和田家に加担し敗北した為所領が取り上げられ、逆に功績があったと思われる鎌田兵衛尉為成が当地に所領を与えられたと推定されています。
鎌田為成は早くから源頼朝に従い、寿永2年に発生した野木宮合戦では頼朝に対抗した志田義広が鎌倉に向けて進軍し、それを迎撃する為に派兵された下河辺行平と小山朝政の軍に加勢しています。
その後は鎌田氏の拠点として機能したようですが、経緯や廃された時期等も明確な資料が残っていません。
城域は1500uに及ぶ規模で、直接な城郭とは関わらないものの、桂川と軽沢川の合流地点に位置する事から東、南、西の3方が深い谷に囲われる天然の要害となり、残りの北側には堀が設けられた推定され、堀之内の地名が残されています。
現在は宅地化された為、明瞭な遺構が残っておらず、主郭と思われる地には諏訪神社が鎮座しています。
諏訪神社の本殿から大同年号が記された木簡が発見されている事から、これが事実とすれば為成が居館を構える前から鎮座していた事となり、居館が完成した後は館の守護神や鎮守社だった可能性があります。
鎌田氏館の跡地は貴重な事から大月市指定史跡に指定されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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