・深草館が何時頃築城されたのかは判りませんが、一説によると平安時代末期頃に谷戸城の支城として築かれたとも云われ、源清光の嫡男である逸見上総介光長が配されたとされます。
光長は大治3年に源清光と駿河国手越宿の遊女との間に生れたとされ、甲斐武田家の祖とされる武田信義の双子の兄とも云われています。
光長は「逸見」姓を掲げると源頼朝に従い、鎌倉幕府成立後は御家人となっています。
鎌倉幕府成立には武田信義の方が圧倒的に功績があった事が主原因と思われますが、この頃になると信義が甲斐武田家の惣領的な立場となり、光長は資料からは姿を消しています。
深草館がその後どの様に利用されたのかは判りませんが、次に確認されているが戦国時代になってからで、江戸時代に編纂された「甲斐国志」によると、「深草城虚ト伝処アリ、相伝テ城主下総守其次主税助、宮内左衛門ナリト伝」、「相伝フ清光ノ臣堀内某居之、子孫堀内下総守ノ子主税助ノ時城陥落魄セント云々、塁濠全ク存セリ」と記されています。
「甲斐国志」が正しければ、深草館は清光の家臣だった堀内家が代々城主を歴任し、堀内主税助の代に敵勢に攻められ落城した事になります。
堀内下総守は「武田御日牌帳」に元亀2年と天正4年にその名が見られる事から、武田家の家臣だった事が窺えます。
この事から深草館は下総守の跡を継いだ主税助が天正年間に甲斐領に侵攻した織田勢によって攻め落とされたと推定されています。
深草館は、比高約10m程の中世の平城で、東西約50m、南北約130m、北側と東側、南側の3方は堀を設け、西側に流れる西衣川を天然の堀に見立、周囲を高さ1〜2m程の土塁で囲んでいました。
内部はに大きく3つに分かれ、北郭と南郭の境にも土塁でそれぞれを遮断し、出入部は虎口が設けられ、さらに南郭を南北に分ける土塁がありました。
深草館の跡地には現在でも郭の形状や土塁、空堀等の遺構が明瞭に残され、貴重な事から山梨県指定史跡に指定されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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