・下曽根氏屋敷が何時頃築城されたのかは判りませんが、下曽根氏が居館として設けたと伝えられています。
下曽根氏は甲斐源氏14代当主、武田家11代当主、甲斐国守護の武田信重の子供である賢信甲斐国八代郡曽根郷に配された事から地名に因み「下曽根」姓を掲げたのが始まりとされます。
下曽根氏は武田氏の親族衆としてその一翼を担い、賢信の孫に当たる下曽根信恒は永禄年間に小諸城の城将を勤め、騎馬20騎・足軽50人を率いる侍大将として各地を転戦し旗本武者奉行にも数えられています。
跡を継いだ源六郎信達と、その弟である源七弥左衛門尉は武田勝頼に仕えましたが、源七は天正3年の長篠の戦で討死しています。
信辰の跡を継いだ信照は天正10年に武田家が滅亡した為、徳川家に転じ、天正18年に発生した小田原合戦では徳川家に従軍し、岩槻城攻防戦で討死しています。
信照の跡を継いだ弟の信正は引き続き徳川家に仕え、上野国碓氷郡内千石を安堵され旗本になった為、当地を離れ屋敷も廃された可能性があります。
現在の実際寺境内一円約100四方が屋敷跡とされ、北側の正面のみ土塁が完全に失われていますが、残りの三方には土塁と堀の一部が残され、当時の面影が僅かに残されています。
又、実際寺は下曽根氏の菩提寺で本堂には下曽根出羽守や長篠の戦で討死した下曽根源七の位牌等が安置されています。
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