・当館が何時頃築城されたのかは不詳ですが、武田信義が自らの居館として築かれたとされます。
武田信義は大治3年に源清光の次男として生れ、保延6年に武田八幡宮で元服し、仁安3年に清光が死去すると家督を継いでいます。
早くから、波志田山合戦や鉢田の戦い、富士川の戦いで大功を挙げて駿河国を手中にすると、源頼朝、木曽義仲と共に武家の棟梁と目され、平家打倒に尽力しています。しかし、源頼朝は平家打倒が完遂すると信義を敵視するようになり、元暦元年に嫡男の一条忠頼が鎌倉に招かれ宴席で暗殺される等勢力を削がれ、鎌倉幕府の一御家人に転落しています。
武田信義館は目立った遺構が無い為、館の規模は判りませんが、東側を流れる釜無川、北側の堅沢、南側の甘利沢を天然の防衛施設と見立、西側に位置する白山城が詰城としていたようです。
周辺には「お屋敷」・「お旗部屋」・「神酒部屋」・「お庭」・「的場」・「お堀」・「金精水」・「具足沢」等の地名があり、館跡の名残とされます。
発掘調査で近隣の新田遺跡から12世紀の青磁や水晶、館跡と思われる東部から中国産陶磁器等が発見され、鎌倉時代には既に当地が開発され、身分が高い人物が居していた事が窺えます。
近隣に境内を構えている鳳凰山願成寺は宝亀2年に権大僧都心休了愚法印が開創した曹洞宗の寺院で、武田信義が武田家の祈願所として中興した際、木造阿弥陀三尊像を奉納しています。
信義が奉納した木造阿弥陀三尊像は国指定重要文化財に、信義の墓碑と伝わる鎌倉時代初期の五輪塔は韮崎市指定文化財に指定されています。
武田信義館跡は貴重な事から韮崎市指定史跡に指定されています。
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