・川田館は甲斐源氏第16代当主、武田氏13代当主、甲斐国守護職の武田信昌が跡部景家を制した後、居館を石和から当地に遷した際に築かれたとされます。
信昌は跡部氏を粛清したものの、穴山氏や大井氏、今井氏、小山田氏等が独立を画策し甲斐国全体が混沌とした中、明応元年に長男である武田信縄に家督を譲って隠居しています。
信昌は隠居所として万力郷落合に居館を設けたと推定され「落合御前」と呼ばれるようになっています。
川田館は信縄が継承し、ここを拠点として混迷を深めた甲斐国の運営を虐げられました。
特に異母弟である油川信恵みとの家督争いは領内の国人領主達が2分する抗争に発展し、これに乗じた駿河今川氏や伊勢盛時(北条早雲)が甲斐国内に侵攻しています。
永正4年に信縄が死去すると、嫡男である武田信虎が跡を継ぎ、永正5年に油川信恵勢を破った事で優位となり、永正6年に小山田越中盛信宥が従属、永正14年には甲斐国に侵入した今川勢を撤退させ、大井信達を臣従させています。
これにより信虎は事実上甲斐国を統一し、永正16年に守護所を川田館から甲府に移転し、新たに躑躅ヶ崎城を築城、城下町の整備が行われています。
その後、川田館がどの様な扱いを受けたのか記録が無く不詳ですが、一般的には破却されたと考えられています。
館の規模は南北一町(約109m)、東西二町(約218m)、二宮神社の東側の葡萄畑一帯がその跡地とされ、水堀だったと思われる水路や御所曲輪があったと推定される所には土塁と思われる痕跡が残されています。
又、敷地内からは15〜16世紀初め頃の土器や擂鉢、大陸で制作された陶磁器等が発見されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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