・馬場氏屋敷は武田家の重臣である馬場美濃守信房(信春)が居館として設けたとされます。
馬場氏は源頼光を祖とする摂津源氏である馬場仲政の後裔で、土岐光衡の一族が甲斐国巨摩郡教来石に入部し、地名に因み「教来石」を掲げました。
教来石駿河守信明は甲斐守守護職の武田信重の娘婿になった際、「馬場」姓に復したものの、4代目馬場虎貞が武田信虎の逆鱗にひれ手打ちとなり馬場家が一時断絶しています。
天文15年に武田信玄に命により信玄の重臣で馬場一族である教来石景政が名跡を継ぎ馬場景政を名乗りました。
景政は武田勝頼にも信任を得て重臣として活躍しますが、天正3年に発生した長篠の戦では勝頼に撤退を進言し、自ら殿を志願し時間稼ぎの為に馬場隊を率いて織田軍に突入、多くの織田方を討ち取った後に腹を十字に切って自刃したと伝えられています。
近隣にある自元寺が景政(信春)の菩提寺で、境内には景政の供養塔が建立され、山門は当屋敷から移築したものと伝えられています。
屋敷跡は土塁や空堀等の遺構も無くはっきりとした痕跡は失われていますが、白州保育園の付近が伝承地とされます。
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