・長閑屋敷は、16世紀に武田家に仕えた長坂長(釣)閑斎光堅が居館として築いたとされます。
長坂氏は信濃源氏小笠原家の庶流、又は甲斐源氏武田氏の支流栗原氏の分流とされ、武田信玄が信濃侵攻を本格化すると当時の当主だった長坂長閑斎光堅は信玄に下り、その後は騎馬40騎、足軽45人を率いる足軽大将として武田家重臣板垣信方を補佐しました。
板垣信方が天文12年に発生した上田原の戦いで討死すると、その後任に抜擢され諏訪高島城の城主、諏訪郡司に就任し、特に外交や諜報活動で功績を挙げ、家老級の扱いだったとされます。
永禄5年に武田勝頼が高遠城の城主になると、領地が近かく諏訪に関係が深かった事から勝頼とは近しい間柄となり、勝頼が武田家の家督を事実上継ぐと重臣として重用されています。
天正3年の長篠の戦では、武田勢の倍する織田徳川連合軍との決戦を進言し大敗北の原因になったと「甲陽軍鑑」に記されています。
ただし、長坂長閑斎光堅は軍議に参加していなかった説や、そもそも長篠の戦に参陣していなかった説、「甲陽軍鑑」は誤りが多い為に当てにならない説等があります。
天正10年に武田家が滅亡した際には甲府で織田勢に捕縛され子供の昌国と共に処刑、又は勝頼に随行し織田勢と戦い討死したとも云われています。
同年に発生した本能寺の変で織田信長が死去し織田家中が自領に引き上げた為、旧武田領が空白域となり天正壬午の乱が起きると、長閑屋敷は小田原北条氏に接収され陣所として改修工事が行われています。
長閑屋敷は東西約60m、南北約80m、比高約10m程に単郭の平城(居館)で、東、南、西の三方には幅2〜3m、深さ1m程の水堀、四方を土塁で囲っていました。
現在でも僅かに土塁や堀の形状が残され、貴重な事から北杜市指定史跡に指定されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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