・教来石民部館が何時頃築城されたのかは判りませんが、教来石氏によって築かれたとされ、地名に因み鳥原屋敷とも呼ばれました。
教来石氏は武田家支流の一条家から派生した氏族で、当初から武田家宗家に従い、地名から武川衆とも云われました。
一説には武田信光の4男一条六郎信長の孫である広政(時信)が鎌倉時代末期頃に教来石村(慶良吉)に配されたとも、土岐光衡の後裔が教来石村に入部し地名に因み「教来石」姓を掲げたとも云われています。
当地は甲斐国と信濃国との国境に近く、江戸時代には甲州街道と呼ばれた主要道の経路沿いにあった事から軍事的にも重要視され、国境防衛任務に大きな功績がありました。
特に、教来石信春が著名で、名門である馬場家の名跡を継いで、武田家の重臣として武田二十四将に数えられ、長篠の戦では壮絶な最期を遂げています。
信春は居館を鳥原から白須に遷した事から間もなく当屋敷は廃されたと思われます。
屋敷は100四方の広さがある、幅5.6m、深さ2.7〜2.8mの薬研堀を周囲で囲った単郭の居館で、中世の掘立柱建物跡と見られるピット群や遺物が発見されています。
山梨県:城郭・再生リスト
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