・椿城は鎌倉時代に小笠原長清の孫に当たる小笠原盛長が築城したとされ、地名から上野城と呼ばれる一方で、周囲に椿が群生していた事から椿城とも称しました。
盛長は地名に因み「上野」姓を掲げましたが、3代目当主上野政長に嗣子が居なかった事から秋山家から養子を迎えたものの、上野姓は引き継がず実家の秋山姓を名乗っています。
南北朝時代には武田家10代当主武田信武の次男である武田信明が当地に配され、「大井」姓を掲げました。
大井氏は武田家の有力一族である一方で、武田家からの独立を画策し、戦国時代の当主だった大井信達は穴山信懸や駿河の今川家等と汲んで版図を広げました。
永正12年に発生した大井合戦では甲斐国守護の武田信虎が率いる大軍が当城に攻め寄せましたが、深い田圃に馬が足を捕られ抜け出す事が出来なかった事から一斉攻撃を受け武田勢に多くの死傷者が出たようです。
ただし、当城の周辺には深い田圃や湿地帯がない事から椿城付近での合戦ではなかったとの説もあります。
その後も大井氏と武田氏の対立が続きましたが、永正17年に和睦が成立し、信達の娘である大井の方が信虎の正室となっています。
天正10年に武田家が滅ぶと大井氏は帰農したようで、椿城もその後利用したとの記録が無い事から廃城になったと思われます。
椿城の城跡の境内を構えている本重寺は鎌倉時代に秋山光朝の子供である秋山光定が開創した日蓮宗の寺院で、板本尊は弘安5年に日蓮が日興に授けたものと同じ形式の者とされます。
正中2年に日興が秋山与一光定に与えたものと伝えられて貴重な事から南アルプス市指定文化財に指定されています。
当寺はその後衰微したようですが、大井信達が中興開基となり境内を整備し、寺号を本覚寺から信達の戒名である「本習院能岳宗芸」に因み本重寺に改めたとされます。
境内の一角には大井信達等、大井家一族のものと伝わる五輪塔が複数残されています。
江戸時代に編纂された「甲斐国志」によると「城内ニ三町歩林薄中ニ塁湟 然トシテ存セリ、塁ノ南面八村居、東ハ畠ナリ、本重寺ノ境内ニモ古塁アリテ城ノ如シ」と記しており、江戸時代には土塁等の遺構が明瞭に残っていたようです。
現在は僅かに凸凹はあるものの目立った土塁や空堀等の遺構は見られず、本丸跡とされる一角には旧城主家だった秋山家の墓碑が集められています。
椿城(上野城)の城跡は貴重な事から南アルプス市指定史跡に指定されています。
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