・義清館は平安時代後期に源義清が居館として設けたとされます。
源義清は甲斐源氏初代当主源義光の3男として生れ、常陸国那珂郡武田郷に配された事から地名に因み「武田冠者」を名乗ったとされます。
大治5年に領地の境界を巡り、常陸の在庁官人である大掾盛幹と戦となり大敗、天承元年に甲斐国市河荘に流されています。
当初は巨摩郡平塩岡に館を構えましたが、晩年は当地に館を遷し、久安元年に市河荘で死去しています。
義清神社は、館の跡地に社殿を造営し義清の御霊を勧請し、義清大明神として奉斎した神社で、境内西にある「おこんこん山」は義清の墳墓と伝えられています。
境内と「おこんこん山」は発掘調査も行われ、境内の南辺は防衛的役割を持った土塁の一部が確認、12世紀代の土師質土器が発見され、考古学上からも検討が加えられています。
その結果、平安時代後期から末期頃の土塁を伴う相当広い生活空間が確保されている事から、特定階級や相当な勢力を持った人物の居館と考えるのが妥当とされています。
一方、「おこんこん山」は高さ3m程の円墳状の形状で、複数の遺物が発見されたものの、どの時代のものかは判明出来なかったとされます。
江戸時代末期に編纂された「甲斐国志」には「義清社ノ傍二奥槨ノ墳アリ」と記されています事から少なくとも江戸時代には既に存在していた事が判ります。
源義清公館跡は貴重な事から昭和町指定史跡に指定されています。
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