願成寺(韮崎市)概要: 鳳凰山願成寺は山梨県韮崎市神山町鍋山に鎮座している曹洞宗の寺院です。願成寺の創建は宝亀2年(771)、権大僧都心休了愚法印が京都祇園寺の末寺として開かれました。当初は草庵でしたが延長6年(928)、堂宇を建立し地蔵菩薩を安置、寺院として願成寺が成立しています。
その後、衰退しましたが平安時代末期、この地の領主となった武田信義(源清光の次男、武田家4代当主)が中興し京都の仏師が製作した木造阿弥陀三尊を奉納、祈願所として庇護しています。周囲には信義の居館や詰城である白山城、崇敬社である武田八幡宮などの史跡が点在しています。武田信義は源平の合戦で活躍するものの源頼朝と不仲となり自刃(又は文治2年:1186年に病没)、戒名「願成寺殿俊照国公大禅定門」、庇護者を失った願成寺も衰退したと思われます。
戦国時代に武田信虎の甥が住職となり天台宗から臨済宗に改宗すると再び武田家の庇護の下、諸堂が再建され寺運も隆盛し永禄2年(1559)には曽雌定能(武川領主)が木造阿弥陀三尊を寄進しています。天正10年(1582)、織田信長の甲斐侵攻により武田家が滅びるとその兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失、その後再建したものの慶長12年(1607)の火災により再び大きな被害を受けました。
宝永15年(1638)、然重応廊和尚が曹洞宗に改宗し上条南割村の大公寺末寺となり、万治元年(1658)に赫山和尚が再興に着手し庫裏(寛永年間:1624〜1645年)、本堂(元禄年間:1688〜1704年)などを随時再建しています。
願成寺の寺宝である木造阿弥陀如来及び両脇侍像は武田信義が寄進しもので、平安時代末期(12世紀後半)に製作、阿弥陀如来座像:寄木造、像高146.1cm・観音菩薩立像:寄木造、像高169.7cm・勢至菩薩立像:寄木造、像高168.5cmいずれも定朝様の作風が感じられる貴重なものとして昭和14年(1939)に国指定重要文化財に指定されています。
又、武田信義の墓と伝わる鎌倉時代初期の塔形を残す「五輪塔」、後白河法皇が命名し、馗安が揮毫したと伝わる願成寺の「山号額」、武田氏歴代の位牌堂の本尊として御霊殿に安置されている「阿弥陀三尊像」が韮崎市指定文化財にそれぞれ指定されています。甲斐百八霊場第77番札所。山号:鳳凰山。宗派:曹洞宗。本尊:阿弥陀如来。
願成寺:上空画像
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