韮崎市: 武田八幡宮

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概要・歴史・観光・見所

武田八幡宮(韮崎市)概要: 武田八幡宮は山梨県韮崎市神山町北宮地に鎮座している神社です。武田八幡宮の創建は諸説あり、社伝では弘仁13年(822)、嵯峨天皇の勅命により宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の分霊を勧請し、貞観年間(859〜876年)に石清水八幡宮(京都府八幡市)の分霊を勧請合祀したのが始まりとされます。

「甲斐国志」によると日本武尊の御子武田王がこの地に居館(桜の御所)を設け、武田王が亡くなった後に墳墓(わに塚:前方後円墳)が築造され、居館跡には住民達が祠を建立し武田武大神と称したのが始まりとも、弘仁13年(822)この地を訪れた弘法大師空海(真言宗の開祖)が霊夢により八幡神を祭神とする祠を建立したのが始まりとも伝えられています(別当寺院だった法善寺も弘法大師空海が再興したとの伝承が残されています)。

【 武田八幡宮と武田王 】-武田八幡宮の信仰の前身は武田武大神を祭る祠だったとされ、武田武大神は日本武尊の子供とされる武田王と伝えられています。武田王の事が掲載されている「ホツマツタヱ」によると日本武尊が尾張国で結ばれた宮簀媛との子供で、同腹の弟として佐伯命(佐伯王)がいて尾張国の丹羽建部君の祖になったと記されています。

宮簀媛については日本書紀、古事記(美夜受比売)でも記され尾張国造の乎止与命の娘で、日本武尊と結ばれ、尊が死没すると形見である草薙剣を御神体とする熱田神宮(愛知県名古屋市)とされます。

見どころ多い武田八幡宮の参道
見どころ多い武田八幡宮の参道

日本書紀、古事記には武田王の記述がなく「ホツマツタヱ」だけですが、その「ホツマツタヱ」も日本に漢字が流通する以前の神代文字で表現されている扱いが難しい資料とされます。「ホツマツタヱ」は一般的に江戸時代に神道家によって制作された偽書説が有力で、それが事実とすれば武田王の伝説自体が江戸時代に流布された事になります。

確かに山梨県には日本武尊の伝説を伝える社寺は多数存在しますが、その子供で系譜上は仲哀天皇の弟でもある武田王が縁もゆかりもない当地に配されたのかは疑問が残ります。

当社近くに鎮座する諏訪神社の南西に築かれた「わに塚」は王仁塚、鰐塚とも言い、江戸時代後期に編纂された「甲斐国志」によると住民の口碑では武田王が当地に設けられた御所で政を行い、薨じると塚を設けて葬られたと伝えられている事が記されています。

ここで、住民の伝承を置いといて、単純に王仁族の墳墓と仮定すると、音読みは「わに」ですが訓読みだてと「王仁=おうじん=応神=八幡神」の図式が成り立ち、八幡神が祭られるようになったと考えると極めて判りやすいと思われます(普通に和邇部臣の墳墓だった可能性もあります)。江戸時代に入り、識者が武田王の存在を知ると、旧領主だった武田家を惜しみ関係性があるような伝説を作り上げたのかも知れません。

武田八幡宮:上空画像

【 武田八幡宮と武田家 】-その後は歴代甲斐国司が庇護し社殿の造営などを行いますが平安時代末期、甲斐源氏の祖新羅三郎義光の曾孫である源清光の次男とされる武田信義が領主となると白山城を築き居城とし、麓に鎮座していた武田八幡宮を氏神に定めた事で歴代武田家の崇敬社となり、一層の庇護を受ける事となり社運が隆盛し「西の武田八幡、東の窪八幡」などと称されました。

武田信虎が躑躅ヶ崎館山梨県甲府市)に本拠を移すと、信仰の中心は府中八幡宮に移り、国内の神社の神官は八幡宮への参勤が義務付けられましたが、武田八幡宮の神官は格式が高い為に免除となっています。

その後も庇護が続き天文10年(1542)にも武田信玄、義信父子が社殿を再建、諸役の免除など庇護し、天正10年(1582)には織田信長の甲斐侵攻に対し武田勝頼の妻である北条夫人が武運長久の祈願を行っています。

武田家が滅亡すると徳川家が庇護し天正11年(1583)に社領が安堵されると共に諸役の免除、境内での禁令が出され、天正年間(1573〜1593年)には甲府城の城代、甲斐の郡代として配された平岩親吉が家康の命で社殿の造営が行われています。

江戸時代に入っても歴代将軍や甲府藩主、甲府勤番などが庇護し社殿の修復や神事執行、雨ごいの祈祷などが行われ、境内は神域として植物や樹木の伐採が禁止され諸役の税なども免除され27石2斗余の朱印地を安堵されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され明治6年(1873)に郷社に、後に県社に列しています。

歴史が感じられる武田八幡宮の社殿
歴史が感じられる武田八幡宮の社殿

【 武田八幡宮の社殿 】-現在の武田八幡宮本殿は天文10年(1542)に武田信玄、義信父子が社殿を再建したもので三間社流造、檜皮葺、外壁は真壁造り板張り、構造や工法、木鼻や蟇股、扉など室町時代後期の特徴を継承する貴重なものとして軒札5枚と共に昭和4年(1929)に国指定重要文化財に指定されています。

参道の木造鳥居は武田八幡宮の二の鳥居にあたり、当初の建立年は不詳ですが元禄14年(1701)に再興し、寛政元年(1789)に再度再興されたもので、高さ7mと巨大で山梨県指定文化財に指定されています。境内正面の石鳥居は中世に建造されたもので神明鳥居、高さ1.788m、長さ6.6m、正面石垣と共に山梨県指定文化財に指定されています。

本殿に隣接する末社若宮八幡宮本殿は桃山時代から江戸時代初期に造営されたもので一間社流造、檜皮葺、正面1間向拝、三方浜縁、高欄、脇障子付、外壁は真壁造り板張り、当時の神社本殿建築の遺構として貴重な事から昭和36年(1961)に山梨県指定文化財に指定されています。

武田八幡宮随神門(神社山門)は入母屋、桟瓦葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り、下層部正面1間分は柱のみの吹き放し、左右には随身像安置、上層部高欄付き、韮崎市に残る数少ない楼門建築の遺構として貴重な存在です。

拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行4間、張間2間、外壁は真壁造り板張り。神楽殿は木造平屋建て、切妻、桟瓦葺き、妻入り、間口2間、奥行き3間、外壁は柱のみの吹き放し、周囲高欄付き、秋の大祭では幽玄な神楽が奉納されます。又、境内全域が「武田八幡神社 韮崎」として平成13年(2001)に山梨百選に選定されています。祭神:誉田別命(中殿)、足仲津彦命(左殿)、息長足姫命(右殿)、武田武大神(相殿)。

武田八幡宮の文化財
・ 本殿−天文10年−三間社流造、檜皮葺−国指定重要文化財
・ 末社若宮八幡宮本殿−桃山〜江戸初期−一間社流造、檜皮葺−県指定
・ 石鳥居 付正面石垣−中世−山梨県指定文化財
・ 武田勝頼夫人北条氏祈願文−天正10年−山梨県指定文化財
・ 二の鳥居 付神額 輿石−寛政元年−山梨県指定文化財
・ 境内の樹叢−韮崎市指定文化財

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【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式サイト


武田八幡宮:ストリートビュー

武田八幡宮:本殿・石鳥居・写真

武田八幡宮の二の鳥居(木造両部型)を撮影した画像
[ 付近地図: 山梨県韮崎市 ]・[ 韮崎市:歴史・観光・見所 ]
武田八幡宮の歴史ある石造鳥居と苔むした石垣を写した写真 武田八幡宮のカッコいい随身門(神社山門)を撮った画像 武田八幡宮の石段から見た例祭で神楽が奉納される神々しい神楽殿 武田八幡宮神楽殿に隣接する神楽装東舎
武田八幡宮の趣のある拝殿の全景画像 武田八幡宮参道石段から見た拝殿 武田八幡宮拝殿越に見た格式の高さが感じられる本殿正面 武田八幡宮本殿と左手に鎮座している末社若宮八幡宮本殿
武田八幡宮の迫力のある大型本殿の左斜め前方の画像 武田八幡宮末社若宮八幡宮本殿全景 武田八幡宮境内に設けられた歴史が感じられる石造鳥居と石垣 武田八幡宮の随身門(楼門)に安置されている随神像
武田八幡宮の随身門(楼門)に安置され聖域を守護する随神 武田八幡宮参道石段から見下ろした随身門と石燈篭 武田八幡宮の境内にある大木越に見た随身門 武田八幡宮の参拝者の身を清める手水舎


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