【 概 要 】−武田信義は河内源氏の2代目棟梁である源頼義の3男、源義光(新羅三郎)の3男(又は2男)、源義清の子供、源清光の2男として大治3年(1128)に生まれています。保延6年(1140)に武田八幡宮で元服し、幼名(龍光丸・勝千代)から武田太郎信義に名前を改めています。仁安3年(1168)に清光が死去すると家督を継ぎ、引き続き甲斐源氏の発展に尽力したと思われます。治承4年(1180)、平家の台頭により朝廷の権威が侵されると以仁王(後白河天皇の第三皇子)が平家打倒を呼び掛けた「以仁王令旨」に呼応して挙兵、信濃国(現在の長野県)に配された平家軍を一掃しています。
さらに、源氏の棟梁である源頼朝の命により駿河国に軍を進め、頼朝の監視役だった橘遠茂や長田入道と交戦し勝利し駿河国を手中にしています。平家本軍(平維盛率いる追討軍)との戦いである富士川の戦いでは頼朝の本隊と合流して撃破し、その後も源氏軍に従軍し平家滅亡に大きく貢献に甲斐源氏は広大な版図を築いています。しかし、頼朝は平家滅亡に際しては源氏一族の団結を高らかに挙げたものの、同族の権力が強大になると自分の地位を脅かす存在として各個撃破を行い武田信義もその対象となりました。
養和元年(1181)には駿河守護を解任、鎌倉に呼び出され忠誠を誓わせる屈辱を与えられ、元暦元年(1184)には武田信義の嫡子一条忠頼が頼朝の画策により暗殺されました。これにより甲斐源氏は一大勢力から鎌倉幕府の一御家人に転落し、信義も失意のうちにこの世を去ったと伝えられています。信義が武田家歴代の祈願所として再興した願成寺(山梨県韮崎市)には信義のものと伝わる墓碑が建立されています。願成寺の伝:武田信義の五輪塔は韮崎市指定文化財に指定されています。又、近隣には武田家が信仰の対象の一つとした武田八幡宮が鎮座し、境内背後の高台は信義が築いたたとされる白山城が控えています。
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