【 概 要 】−武田信重は甲斐国守護職を担った武田家13代当主武田信満の嫡男として生まれました。信満は応永23年(1416)の上杉禅秀(氏憲)の乱の際、禅秀の小舅だった事から禅秀方に加担、禅秀が討死すると軍が瓦解しました。信満は甲斐に逃れたものの鎌倉公方足利持氏の追討を受け「都留郡十賊山」で自害に追い込まれ、信重は高野山に逃れて出家し「光増坊道成」と名を改めています。
これにより、甲斐国を政治的にまとめる守護が不在となり、禅秀方の旧勢力と幕府側を支持する国人領主達がそれぞれ対立を深め戦が頻発する不安定な状況に陥りました。応永28年(1421)、幕府に許された信重は甲斐国の帰国と守護の就任を促されますが、これを拒否し、応永30年(1423)にも同様に促されますが、今度は鎌倉府が認めず、応永32年(1425)には自ら拒否し京都に留まっています。
武田信重が甲斐国入りしたのは永享10年(1438)の事で、菩提寺となる成就院(山梨県笛吹市石和町)の境内周辺が信重の居館だったようです。宝徳2年(1450)、信重は離反した黒坂太郎を討伐の為に館から離れると、小山城(山梨県笛吹市八代町高家)の城主穴山伊豆守に後背を突かれ討死したと伝えられています。穴山伊豆守は信重の叔父にあたる穴山修理大夫満春(信元)の子供とされ、甲斐国に守護が不在の時に満春(信元)が守護代として尽力したものの、満春(信元)が死去し信重が甲斐国に復帰すると排斥され恨みを持っていたと推察されます。
武田信重は社寺の保護も行い、文安2年(1445)には向嶽寺(山梨県甲州市)への寺領を安堵し、文安3年(1446)には一蓮寺(山梨県甲府市)を再興しています。
成就院は甲斐源氏の祖とされる逸見清光(源清光)が創建したと伝わる寺院で、当初は清光院と号していましたが、武田信重の菩提が埋葬されるにあたり、信重の法名「成就院殿功岳道成大居士」から「成就院」に改めています。成就院の境内に建立されている武田信重の墓は笛吹市指定史跡に指定されています。
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