【 概 要 】−武田信昌は文安4年(1447)に甲斐国守護職で甲斐武田家15代当主武田信守の子供として生まれ、康正元年(1455)に信守の死去に伴い家督を相続しました。家督相続時はまだ幼少(9歳)だった事もあり、守護代の跡部明海・景家父子が甲斐国内で大きな勢力となり、武田方の協力者達は各個撃破されていきました。寛正5年(1464)に明海が死去すると跡部家の凋落が見え始め、寛正6年(1465)には諏訪信満の援護を受け夕狩沢合戦で武田方が勝利し、跡部家の拠点である小田野城(山梨県山梨市牧丘町小田野山)で景家を自刃に追い込んでいます。
その後は穴山氏、大井氏(武田大井氏)、今井氏、小山田氏などの甲斐国に乱立する国人領主との争いが絶えず、信濃佐久郡の国人大井氏の侵攻を許すなど波乱が続き、一応の甲斐国内の平定を成した明応元年(1492)に嫡男の武田信縄に家督を譲っています。当主時代の居城は川田館(山梨県甲府市川田町)でしたが、隠居後は落合館(山梨県山梨市落合)に移っています。
しかし、今度は信縄と2男の油川信恵が対立するようになり、信昌は信恵に加担した事から再び甲斐国は乱れ、永正5年(1508)に武田信虎が武田家宗家統一を果たすまで続けられています。そもそも信昌と信縄が折り合いが悪く、信縄が病弱だった事もあり信昌が信恵に家督を継がせようと画策、それを察した信縄が信昌を強制隠居に追い込み武田家の家督を継いだとも云われています。一方、社寺仏閣の保護にも努め、明応9年(1500)には大井俣窪八幡神社の境内にある式内社と高良社を再建し、広厳院には文明19年(1487)に寺領の寄進状を発布しています。
武田信昌は統一を見届ける前の永正2年(1505)に死去。享年59歳。法名:永昌院殿傑山勝公大禅定門。菩提は文明年間(1469〜1486年)に自ら開基となり一華文英禅師を招いて創建した永昌院(山梨県山梨市)で、永昌院の境内には武田信昌の墓碑が建立され山梨市指定有形文化財に指定されています。
|