屋代勝永:概要

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概要・歴史・観光・見所
屋代勝永(勝永寺)

【 概 要 】−屋代氏は村上為国の子供、村上明国の孫、村上家盛が信濃国埴科郡屋代郷に配され、地名に因み「屋代」に姓を改め発生した氏族です。その後、信濃の豪族として発展した村上氏の一族として本家(村上家)と行動を共にし一定の勢力を維持しました。天文22年(1553)、真田幸隆による調略に応じて村上家から離反して武田家に転じ、以後、武田家の信濃先方衆として重きを成しました。

屋代勝永は屋代政国の弟である、室賀満政(室賀氏の養子又は名跡を継いだと思われます。)の4男として生まれましたが、屋代家の跡継ぎと目された政国の2男正長(清綱)が天正3年(1575)の長篠の戦いで討死した事で、政国の養子となり、天正4年(1576)に屋代氏の家督を継いだ人物です。天正6年(1578)には要衝である駿河丸子城(静岡県静岡市)の城将に抜擢され、丸子城の大規模な改修、増築が行われている事から重要視されていた事が窺えます。

天正10年(1582)、織田、徳川連合軍による武田領侵攻により武田家の当主武田勝頼が自刃すると、屋代郷周辺は織田家家臣である森長可が支配する事になり勝永もこれに従ったと思われます。同年、本能寺の変で信長がこの世を去ると、森長可はじめ織田家家臣達は自領に引き上げた為、勝永は越後の上杉景勝に従い海津城(後の松代城:長野県長野市松代町)の二の丸に副将として入り、小笠原洞雪斎を擁立して深志城(松本城:長野県松本市)を奪い取っています。

しかし、海津城の城主は旧主家である村上氏だった事もあり、天正12年(1584)には上杉家を離反し酒井忠次を頼って徳川家康に臣従しています。その後、家康の信濃侵攻に功があり更科郡内の領地を与えられましたが、天正18年(1590)に家康の関東移封に伴い武蔵国内に領地を与えられ旧領を離れました。関ケ原の戦いや大坂の陣などの従軍した事で加増を重ね、特に大坂の陣では旗奉行という大役を務め、激戦となった今福の戦いでは久保田藩主佐竹義宣の先鋒と共に大坂方の設けた柵を突破する功を挙げ、甲斐巨摩郡内に領地が与えられています。

元和8年(1623)に徳川忠長の付家老として小諸城(長野県小諸市)の城代に就任した事で諸侯(1万石)に列しました。元和9年(1623)死去、享年66歳。菩提は自ら創建したとされる勝永寺(北杜市)に葬られています。勝永寺近くに建立されている屋代勝永の墓碑は北杜市指定史跡に指定されています。



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