甲府城(舞鶴城)概要: 甲府城の築城年は不詳ですが平安時代後期に甲斐源氏の一族である一条氏の居館として設けられたのが始まりとされます。元暦元年(1184)、一条次郎忠頼が源頼朝に殺されたことで夫人が尼となり、自らの居館を尼寺としその後は後継寺院である一蓮寺の境内として利用されています。
戦国時代に入ると武田家が本拠を甲府に移し躑躅ヶ崎館(武田氏館)を居城にした為、地形的に城下町の防衛上は重要視されたと思われますが武田信玄や武田勝頼は積極的な利用は行われなかったようです。
天正10年(1582)、武田家が滅ぶと一時織田信長が領しますが、同年に本能寺の変が発生し信長は自刃、織田家の家臣達は戦線を維持出来ず本領に撤退した為、その間隙を突いて徳川家康が侵攻し徳川家の支配となりました。家康は武田家の本拠だった躑躅ヶ崎館(武田氏館)に入らず、新たに甲府城の築城を平岩親吉に命じます。
天正18年(1590)小田原の役後、家康が関東に移封されると豊臣秀吉の領地となり羽柴秀勝(豊臣秀吉の甥)、加藤光泰、浅野長政、浅野幸長等が城主となり築城を引き継ぎ甲府城を完成させ本格的な城郭へと変貌を遂げました。
新選組に所縁がある甲府城(舞鶴城公園)
江戸時代に入ると甲府城は江戸城へと続く甲州街道(中山道の下諏訪宿から江戸日本橋を繋ぐ街道)の要衝と位置づけられ、慶長8年(1603)には家康9男徳川義直、元和2年(1616)2代将軍徳川秀忠の2男徳川忠長、寛文元年(1661)3代将軍徳川家光3男徳川綱重、延宝6年(1678)徳川綱豊(綱重嫡男)と、徳川一族が城主を歴任し特別な城郭だったことがわかります。
宝永3年(1705)、柳沢吉保が甲府城に入ると始めて大名領となり甲府藩が立藩、新たに城下町の整備が行われます。
享保9年(1724)、吉保嫡男柳沢吉里が大和郡山藩(奈良県大和郡山市)に転封後は甲府藩は廃藩、甲斐国は天領、甲府城には甲府勤番の設置され幕府直轄の城となりました。
幕末には勤番制を廃止して城代を配するなどさらに重要視されましたが慶応3年(1867)に大政奉還が行われ形式上江戸幕府が終焉すると甲府城からは撤退し、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際には新政府軍の板垣退助が無血入城しています。その後、奪還を試みた幕府方の新選組が侵攻するものの甲州勝沼の戦いで敗北しています。
明治6年(1673)甲府城は廃城となり、明治10年頃までに概ね主要な施設が取り壊され、勧業試験場や葡萄酒醸造所、中央線甲府停車場、山梨県立甲府中学校などに利用され、さらに都市計画により堀が埋め立てられ郭の形状が改変されました。その後の開発や戦災などにより城下には目立った武家屋敷や町屋建築、ましてや茅葺の建物などの遺構は見られませんが、周囲には武田家縁の神社や寺院が数多く存在しています。
甲府城(舞鶴城公園):上空画像
明治34年(1904)に甲府城跡が「舞鶴城公園」として整備される事となり昭和43年(1968)に「甲府城跡」として山梨県指定史跡に指定、平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。現在の甲府城は県庁所在地の中心部に位置していながら本丸を中心に石垣や水堀の1部など比較的よく残り稲荷櫓や鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や土塀が随時復元されています。
【 甲州勝沼の戦い 】-慶応4年(1868)1月、幕府官僚の勝海舟は新選組局長の近藤勇に甲府城を押えるように命じて出陣を準備を開始、近藤勇は新撰組を中心とした「甲陽鎮撫隊」を結成、3月に入り江戸を出立しました。その頃、甲府城には板垣退助や伊地知正治など次々と新政府軍が集結し、城内に立て籠もっていた勤番士も戦意が低く事実上無血開城し、新政府軍が甲府城を掌握しました。
近藤勇は江戸から甲府まで雪中行軍の中、大砲2門を擁していた事もあり、必要以上の進軍効率が上がらず、到着時には既に甲府城は新政府軍により占拠されていました。
甲陽鎮撫隊は新撰組以外は混成部隊で士気も低かった事から、この事実を前に逃亡する者も多く、とても戦える状況ではありませんでしたが、3月6日に現在の山梨市一町田中から歌田にかけて戦端が開かれました。当然、圧倒的な差を付けられ敗北し、勝沼の柏尾坂へ後退し1度陣形を立て直すも、まもなく瓦解し八王子退却、甲陽鎮撫隊は解散し江戸に戻っています。
これににより新政府軍は甲州街道筋を確保し江戸進軍が容易になっています。本来、江戸城を守る支城であるはずの甲府城はあっけなく新政府軍に奪われ、その後、取り返す姿勢も殆ど見せておらず、勝海舟は早くから江戸無血開城を模索していたのかも知れません。
甲府城(舞鶴城公園):周辺駐車場マップ
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