甲府市: 酒折宮

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概要・歴史・観光・見所
酒折宮(甲府市)概要: 酒折宮は山梨県甲府市酒折3丁目に鎮座している神社です。酒折宮酒折宮は山名県内では最もと著名な日本武尊の史跡と言っても過言ではない程に有名です。表現が異なるものの、奈良時代に編纂された「古事記」、「日本書紀」共に尊が東国を平定した後に新治、筑波を経由した後に酒折宮に到り、御火焼の老人との間に「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」、「かかなべて夜には九夜日には十日を」との歌のやり取りした事が記載しています。伝承によると、景行天皇の御代に日本武尊が東夷東征の帰途、この地を訪れた日本武尊が当時の甲斐国造塩海足尼に火打袋を授け、自らの分身としたところから、塩海足尼が火打袋を御祭神として社殿を造営したと伝えられています。日本武尊と歌のやり取りした御火焼の老人は塩海足尼と同一人物とされ、尊はその焚き火番の老人を「東国造」に任命し、信濃倉野之坂を経由して尾張に向かったとしています(日本書紀では「東国造」の事跡はなく、上野碓日坂を経て尾張に向かったとしています)。

酒折宮のその後の詳細は不詳ですが、中世に入ると武田家の庇護となったようで、武田家が滅亡する天正10年(1582)時点では社領200石が安堵されていたようです。武田家が滅ぶと、社領が召し上げられた為に衰微しましたが、江戸時代に入ると、社領の有無は不詳ですが、上記の日本武尊の旧跡である事が広く知られるようになり、江戸時代初期には土佐派の土佐光起が「酒折連歌図」を描き、享保年間(1716〜1735年)には甲府藩主・柳沢吉里の命により甲府八景和歌」が定められ冷泉為綱が「酒折夜雨」と詠っています。その後も学者・文学者が参拝に訪れ、境内には本居宣長や平田篤胤、山県大弐といった石碑が数多く建立されています。現在の酒折宮は神社ですが、当時は神社だったのか宮殿だったのか不詳で、記紀で記されている酒折宮の位置も所説あるそうです。江戸時代以降は当地に比定する学者が多く、様々な作品の題材となり、往時を懐かしみ訪れる者も多くなり境内には様々な石碑が建立されています。もし、神社とするならば、尊が当地を訪れた時点で既に鎮座し、高貴な人物が宿営地になる程に境内が整備されていた事になりますが、果たしてどうでしょうか。

日本武尊が東征したとされる時代は景行天皇40年(西暦110年)とされ、これが正しければ弥生時代末期の卑弥呼の時代(西暦:175〜247年)よりも前という事になります。当時の庶民の信仰は素朴な自然崇拝が中心だったと推定される事から、境内背後の八人山、又は月見山が御神体となりますが、山容から察すると手前の月見山は紡錘形をして、本殿背後から山頂にかけて様々な奇岩怪石が点在し信仰の対象になっていた事が十分に感じる事が出来ます。又、中腹には大小様々な古墳があり、時代が下がった古墳時代には聖地として位置づけられていた事が窺え、酒折宮は元々この中腹に鎮座していたとも云われています。その跡地は古天神と呼ばれ、宝暦12年(1762)に思想家・山縣昌貞謹撰の「酒折祝碑」、寛政3年(1791)に本居宣長撰文で平田篤胤書の「酒折宮寿詞」が建立されています。

やや離れた大蔵経寺山は昔、御室山と呼ばれ、山容も美しく月見山と同様に遺跡も多い事から信仰の対象になるには相応しい印象です。大蔵経寺山を御神体とする神社は他に物部神社(山梨県笛吹市石和町松本)、玉諸神社(山梨県甲府市国玉町)、山梨岡神社(山梨県笛吹市春日居町鎮目)があり、何れも平安時代に成立した延喜式神名帳に記載されている式内社の論社で酒折宮より神階が高かったと推察されます。その内の玉諸神社には、日本武尊が酒折宮に滞在した際に御室山を訪れ、当社を創建したとの由緒を持っており、これが事実とすれば御室山からは離れた場所に位置していた事が窺えます。又、これ程の旧跡ながら、三大実録などで表記される神階を与えられた形跡が無く、延喜式神名帳に記載されていない事から、もし神社として成立していたとしても高い格式では無かったと思われます。他の説としては、酒折の「酒」は、「坂」や「境」が転じたとする説で、確かに境内は傾斜地にあり、街道の結束点である事から境ノ神を祭るには相応しい土地柄ではあります。

しかし、街道が整備されたのはかなり時代が下がった後と考えられる事から、酒折宮の成立は早くとも古墳時代以降という事になります。逆に、古墳時代の宮殿跡地という事であれば上記のような神階の矛盾は無くなります。そもそも。日本武尊は往路では近世以降東海道と呼ばれる街道筋を行軍しているのに対し、復路は何とも不可思議な経路を利用し甲斐国(山梨県)、上野国(群馬県)、信濃国(長野県)と行軍しています。そして、古事記によると酒折宮で御火焼の老人との間に日本発の連歌を行い、「東国造」に任命しています。基本的に「国造」とは現在でいう県知事に相当する役職である事から、単に歌の返答をしたからといって易々と与えられる役職ではありません。それらを鑑みると、御火焼の老人は東国と呼ばれる甲斐国、上野国、信濃国周辺を支配する大豪族で、尊に服従した事で、改めて支配権が認められたと考えるのが自然に思えます。その後の行軍は御火焼の老人より自分や天皇が上位である事を示す為の示威運動だったとすると納得出来る部分が見いだせるかも知れません。

酒折宮:写真

酒折宮
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