積翠寺(甲府市)概要: 万松山積翠寺は山梨県甲府市上積翠寺町に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。積翠寺の創建は不詳ですが奈良時代、行基菩薩が開いたのが始まりと伝えられています。当時は境内から湧き出た泉が滝のように岩から流れ落ちていたところから石水寺と称していましたが中世になり現在の寺号である積翠寺に改称しています。
その後、一時衰退しますが、夢窓国師の弟子竺峰和尚が鎌倉時代に中興開山しています。又、積翠寺は武田信玄の生誕の地として知られ、大永元(1521)駿河の今川家家臣福島正成が甲斐に侵攻、その時妊娠していた大井夫人は躑躅ヶ崎館(武田氏館)から積翠寺に逃れ勝千代(後の武田信玄)を産み落としたとされ、境内には出産で利用した産湯の井戸や産湯天神などが残されています。
その後は信玄から庇護され天文15年(1546)には信玄が後奈良天皇の勅使、三条西大納言実澄と四辻中納言季遠、城下にある東光寺の鳳栖、法泉寺の湖月らを招いて和漢連句の会を開いています。その時の記録が 「武田信玄和漢連句」で昭和46年(1971)に甲府市指定文化財に指定されています。
天正10年(1582)に武田家が滅び、新たに徳川家が領主になると徳川家が庇護し、慶長8年(1603)には徳川四奉行から寺領が安堵されています。 寛永20年(1643)甲斐へ配流された八ノ宮良純親王は積翠寺でも数年過ごし墨跡と硯箱、煙草盆が縁の品として残され昭和46年(1971)に甲府市指定文化財に指定されています。
積翠寺境内に設けられている不動堂は、土蔵造平屋建、宝形造、鉄板葺き、桁行2間、張間2間、外壁は白漆喰仕上げ、内部には中尊として「信玄公袈裟がけの銅像」が安置されています。甲斐百八霊場第61番。山号:万松山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:阿弥陀如来。
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