石川家住宅(甲府市)概要: 石川家住宅は山梨県甲府市城東、旧甲州街道沿いに位置している古民家です。石川家は繭糸問屋を営んだ商家だった家柄で、敷地間口が広く、向かって左側は庭園とし表門を設けるなど当時の富裕層の造りが見られます。現在に建物は明治時代後期から大正時代に建てられたと推定されるもので、木造平屋建て、塗屋造、寄棟、桟瓦葺、外壁は黒漆喰で仕上げられています。敷地の間口の割合に対し主屋の間口が狭く庭を広く取っていることからも裕福な商家だったと思われます。
又、敷地内には主屋・文庫蔵(弘化4年:1847年、土蔵造り、切妻、桟瓦葺き、黒漆喰仕上げ)・倉座敷(明治5年:1872年、土蔵造り、切妻、桟瓦葺き、黒漆喰仕上げ)・門(切妻、桟瓦葺き、一間一戸)・土塀などの主要な建物が残されている事も貴重な存在と言えます。石川家住宅は甲府市内に残る数少ない商家建築の遺構として昭和54年(1979)に甲府市指定文化財に指定されています。平成28年(2016)に山梨県指定文化財に指定されています。
【 甲府宿 】−甲府は戦国時代の永禄19年(1519)に当時の甲斐守護職である武田信虎が躑躅ヶ崎館(武田氏館)を設けその城下町として整備された町です。天正10年(1582)に武田家が滅ぶと、その後は豊臣家の家臣浅井長政が入封し、近くに甲府城(鶴舞城)を築城し近世的な城郭、城下町が形成されます。江戸時代に入ると、甲府城は江戸城の支城として位置付けられ、甲府藩が立藩、徳川家の一族が納める親藩として重要視されました。甲府藩が廃藩になった後は幕府直属の代官所となり、城下町は甲州街道の宿場町である甲府宿(甲府柳町宿)として賑わいました。江戸時代後期の記録によると甲府宿(甲府柳町宿)には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒が設けられていました。
【 甲州街道 】−甲州街道は江戸時代初期には開削された街道で、特に江戸城が落城した際に撤退する経路として位置付けられた為に重要視され五街道に数えられました。経路は中山道の下諏訪宿から分岐し、江戸城の城下町の入り口にあたる内藤新宿まで38宿で構成され、同区間を比べると中山道より短かったものの、上記のように軍事利用される事が想定された為、参勤交代で利用する諸侯は高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩に限られました。
石川家住宅:上空画像
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