【 概 要 】−鳥居成次は元亀元年(1570)、鳥居元忠と形原松平家広の娘との子供として生まれました。鳥居家は室町時代から徳川家の譜代の家臣となっていた事から成次も幼少時から徳川家康に仕え、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでも徳川軍に従軍し首級を挙げるなど功績を挙げています。又、鳥居元忠も伏見城にて非業の死を遂げ大きな功績を挙げた事から成次は甲斐東部郡内1万8千石(元忠が一時領していた地域)が与えられ谷村藩が立藩しています。成次は当地方の中心的な存在だった谷村城(山梨県都留市※廃城後は谷村陣屋)に入ると領内の整備を独自で行っています。
慶長8年(1603)に徳川義直(徳川家康9男)が甲府城(山梨県甲府市)に配されると形式上は家臣に組み込まれたようですが半独立性は保たれたようで、慶長12年(1607)に義直が清州城(愛知県清須市一場)に遷った際にも、谷村城に留まり引き続き当地の経営を行っています。慶長19年(1614)には天下普請で築城する事となった高田城(新潟県上越市)の普請に伊達政宗、上杉景勝、小笠原秀政など13大名と共に参加し大きな負担となっています。慶長20年(1615)に発生した大坂夏の陣では徳川秀忠に従い参陣、最終決戦の一つである天王寺・岡山の戦いでは本多正信、高力忠房、日根野吉明、前田利考、立花宗茂など共に秀忠麾下の2番手左隊に布陣しています。戦は激烈を極め大坂方を28人討ち取ったものの家臣も18人が討死するなど大きな被害を被っています。
元和元年(1615)、甲府城に徳川忠長(徳川秀忠2男)が配されると元和2年(1616)に成次は忠長の附家老に就任、領地である谷村領は引き続き安堵されています。寛永元年(1624)、忠長の加増に伴い成次も3万5千石に加増、さらに甲斐国の行政を任されるようになっています。寛永8年(1631)に忠長が改易されると成次も連座し附家老を解任、同年に死去しています。享年62歳、戒名:林伯趙英。
鳥居成次は領内の社寺の保護を行い慶長6年(1601)には保福寺に対し寺領4石8斗を寄進し、慶長11年(1606)に河口浅間神社(山梨県富士河口湖町)が火災で焼失すると慶長12年(1607)に社殿(本殿・幣殿・拝殿)を再建、その内本殿は富士河口湖町指定有形文化財に指定されています。慶長17年(1612)には冨士御室浅間神社(山梨県富士河口湖町)の本殿(国指定重要文化財)を造営、元和元年(1615)には生出神社(山梨県都留市)の社殿を造営しています。
元和元年(1615)には北口本宮冨士浅間神社(山梨県富士吉田市)の本殿(国指定重要文化財)、拝殿(その後再建)、幣殿(その後再建)を造営、その際、浅野氏重が造営した前本殿は西宮本殿として社殿西側に遷されています。元和4年(1618)に長生寺が火災で焼失すると菩提寺として七堂伽藍が再建され(現存する中雀門は都留市指定文化財)、狩野派作の紙本金地著色龍虎梅竹画六曲屏風(山梨県指定文化財)が寄進されています。桂林寺(山梨県都留市)に対しては寺領4石を寄進しています。
|