【 概 要 】−養珠院は徳川家康の側室の一人で、実父は勝浦城(千葉県勝浦市浜勝浦)の城主正木頼忠、養父は蔭山長門守氏広とされます。頼忠の父親である正木時忠は安房里見氏の家臣でしたが、永禄7年(1564)に里見氏を見限り北条家に転じた為、その証として5男の頼忠が小田原城に人質として出されました。頼忠は北条家の一族である北条氏隆の娘と結婚し、養珠院が生まれましたが、今度は時忠が北条家を見限り里見氏に復し、天正4年(1576)に死去した事から、頼忠は正木家を継ぎ勝浦城に帰還する事になりました。養珠院の母親はそのまま小田原に留まり蔭山長門守氏広と再婚、天正18年(1590)に北条家が滅び小田原城が陥落すると氏広は徳川家康に従っています。
蔭山家は日蓮宗だった関係で養珠院も日蓮宗を篤く帰依するようになり、16又17歳の時に家康に輿入れし、慶長7年(1602)に長福丸(後の紀州藩55万5千石藩主徳川頼宣)、慶長8年(1603)に鶴千代(後の水戸藩25万石の藩主:徳川頼房)を出産しています。養珠院は日蓮宗の日遠を師として仰いでいましたが、逆に浄土宗だった家康は日遠を快く思っておらず、江戸城で行われた日蓮宗と浄土宗との問答の前に家康が日蓮宗側の僧侶の暗殺を画策しました。
これにより日遠との対立が決定的となり家康は日遠を捕縛し処刑にしようとしましたが、養珠院の嘆願により日遠が救われました。元和2年(1616)に家康が駿府城(静岡県静岡市)で死去すると、さらに日蓮宗に傾倒し、元和5年(1619)には日蓮宗の総本山である身延山久遠寺(山梨県身延町)に法華経一万部読誦の大法要を催し、女人禁制だった七面山に女性としては初めて登拝を試みています。承応2年(1653)に養珠院が江戸の紀州藩邸で死去すると、遺言により本遠寺(山梨県見延町)に葬られ、承応3年(1654)に徳川頼宣により本遠寺の境内に墓碑が建立、慶応3年(1650)には徳川頼宣が本遠寺の堂宇の造営が行われ、承応4年(1655)に竣工しています。
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