【 概 要 】−入明寺(甲府市)の菩提者である武田信親は天文10年(1541)に武田晴信(後の武田信玄)と正室である三条夫人との間に次男として生まれました。幼少期には既に失明していたとされ、当初は信濃小県郡の有力国人領主である海野幸義の娘を正室として迎え海野氏の名跡を継ぎ、海野次郎信親と名乗りました。一方、長延寺(現在の東本願寺甲府別院光澤寺)の実了(信玄の御伽衆の一人)の弟子として出家して竜芳を名乗りました。
永禄8年(1565)、父親である武田信玄に対して兄である武田義信が謀反を画策し、それが露呈した事で排斥された事を受け、本来ならば信親が武田家の家督を継ぐ立場にありましたが、盲目だった為、腹違いの弟である武田勝頼が武田家を継ぎました。天正10年(1582)に織田、徳川連合軍が武田領に侵攻した際、入明寺に入りましたが、勝頼が天目山の戦いで敗れ自刃した事を聞いて運命を共にしたと伝えられています。享年42歳。
入明寺の当時の住職だった栄順は信親の遺体を境内に手厚く葬り、その上に目印として梅の苗木を植樹したと伝えられています。又、信親の嫡男武田信道は入明寺の栄順と長延寺の実了の協力を得て密かに匿われ、織田家が没落後に徳川家の家臣として命脈を保っています。入明寺境内には武田信親の墓碑が建立されています。
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