【 概 要 】−浅野氏重は豊臣政権で五奉行を勤めた浅野長政の養父である浅野長勝の子供浅野氏次の子とも云われています(一般的には長勝に男子がいない事になっています)。文禄2年(1593)に長政が甲斐国府中21万5千石で入封すると氏重には甲斐東部の都留郡が与えられています。都留郡は徳川家康領と接する軍事的にも重要視される地域である事から浅野家中の中でも信任が厚かった事が窺えます。文禄3年(1564)、氏重は都留郡支配の拠点としていた谷村城の詰城として勝山城(山梨県都留市)を築城したと見られ、勝山の山頂付近に鎮座していた八幡神社(現在の勝山八幡神社)を西南方向に位置した八窪山に遷座し勝山城の鎮守社として奉斎しています。
同年には富士山登拝の拠点である北口本宮冨士浅間神社(山梨県富士吉田市)の社殿を造営し、現在も当時の社殿が西宮本殿(一間社流造、檜皮葺、国指定重要文化財)として現存しています(元和元年に鳥居成次が本殿を造営した際に現在地に移築されています)。都留郡の太閤検地も氏重の指示により行ったと見られ1万8千418石2升が確定しています。氏重は領内整備も順次行ったと見られ北口本宮冨士浅間神社の門前町に設けられた吉田市場に触書を発布しています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで浅野家は豊臣家を見限り徳川家に与した事で和歌山藩37万石で移封となり氏重も田辺領3万石を任され筆頭家老に就任しています(長政は前年、徳川家康暗殺の嫌疑をかけられ強制蟄居となり家督を幸長に譲っています)。その後、浅野家の家督争いで浅野長晟と対立関係となり、大坂の陣で大功を挙げ浅野家を広島藩42万6千石まで押し上げたものの氏重は三次領3万石と加増が無くさらに対立が深まりました。その後の氏重については諸説ありますが、一般的には浅野家から刺客を放たれ暗殺されたと云われています。
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