平岩親吉

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平岩親吉(甲府城)
【 概 要 】−平岩親吉は天文11年(1542)に平岩親重と天野貞親の娘との子供として生まれました。平岩家は徳川家譜代の家臣で徳川家康と年齢が近かった事から要衝の頃から家康の近侍として従い、今川家の人質として駿府城に軟禁された際にも随行しています。永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで敗れて勢力を失った今川家から家康が独立すると側近として取り立てられ家康の長男松平信康の傅役に就任しています。天正7年(1579)、信康と共に反乱を画策したと思われますが、計画が露呈した事で信康は切腹、親吉も謹慎処分となっています(諸説有)。その後、許された平岩親吉は天正壬午の乱で徳川軍の主力の一つとして従軍し天正11年(1583)には甲府城(山梨県甲府市)の築城を命じられ、甲斐の郡代に就任し、武田家の居城だった武田氏館(躑躅ヶ崎館)は廃城となっています。

平岩親吉は武田家旧臣を懐柔する為にも社寺の保護に積極的に行い、武田家の祈願所だった千塚八幡神社には三十六歌仙を奉納、武田勝頼の菩提寺である法泉寺の保護、武田家が信仰した武田八幡宮の社殿の造営、武田勝頼の居城である新府城に鎮座している藤武神社の再興などを行っています。

平岩親吉は天正18年(1590)の小田原の役で功績を挙げ、家康関東移封に伴い厩橋城(前橋城:群馬県前橋市)3万3千石の城主となっています。慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでも東軍として行動しその功績により甲斐府中6万3千石に加増されたものの養子である仙千代(徳川家康8男:高岳院殿華窓林陽大童子)が亡くなるという不運もありました(仙千代は甲府城下にある教安寺に葬られ墓碑が建立されています)。慶長8年(1603)に徳川家康の9男徳川義直が甲府城入封に伴い、義直の附家老となり、同年には天沢寺に禁制を発布するなど幼少だった義直の代わりに甲府藩の藩政を行いました。義直が尾張藩に移封になると、尾張藩内にある犬山城(愛知県犬山市)9万3千石の城主となっています。慶長16年(1611)死去。戒名:平田院殿越翁休岳大居士。

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