北口本宮冨士浅間神社

  山梨県:歴史・観光・見所(ホーム)富士吉田市:歴史・観光・見所>北口本宮冨士浅間神社(読み方:きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)

概要・歴史・観光・見所

北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)概要: 北口本宮冨士浅間神社は山梨県富士吉田市上吉田に鎮座している神社です。北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)北口本宮冨士浅間神社の創建は垂仁天皇の御代(紀元前29年〜西暦70年)、富士山の火山鎮護の為、勅命により木花開耶姫の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。一方、社伝では景行天皇40年(西暦110年)に日本武尊が東夷東征の際、大塚丘を訪れ「富士山は北から拝んだ方が宜しい」との言葉を発した事から富士山の北側登拝の拠点として鳥居を建立、景行天皇50年(西暦120年)に祠を建立し、浅間大神と日本武尊の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。

さらに「甲斐国志」によると浅間大神を勧請する前は諏方明神が鎮座していた事から古文書には「諏方ノ森浅間明神」と呼ばれていたと記載されています。中世までの流れを見ると、当初の主祭神はあくまで諏方明神で、戦国時代の武田氏支配頃から浅間大神が主祭神に転じたと推定されています。

北口本宮冨士浅間神社境内には樹齢1000年を越える大木、古木が見られる事から、富士山信仰の原初の祭祀場だったと推定され、その後は山岳修験の拠点として発展、歴代領主に崇敬され 天応元年(781)の富士山の大噴火を受けて延暦7年(788)には当時の甲斐守である紀朝臣豊庭が現在地に社殿を建立し浅間明神を遷座し、旧社地である大塚丘には引き続き日本武尊を祭りました。

その後も、仁和3年(877)に甲斐守藤原當興朝臣、貞応2年(1223)には鎌倉幕府2代目執権北条義時が社殿を造営するなど庇護しています。

スピリチュアルな雰囲気が感じられる参道
スピリチュアルな雰囲気が感じられる参道

中世には領主である小山田氏、室町時代に入ると甲斐守護職となった武田家から庇護され、永正3年(1506)には武田信縄は病気平癒を祈願、大永2年(1522)には武田信虎が北口本宮冨士浅間神社に参拝の後富士山に登拝、永禄4年(1561)には武田信玄が川中島の戦いの際、戦勝祈願を行い念願成就すると東宮本殿を造営、さらに永禄8年(1565)には娘である松姫の病気平癒を祈願しています。

天正10年(1582)、武田家が滅ぶと、谷村城主が庇護し文禄3年(1594)には浅野氏重が西宮本殿を造営しています。

元和元年(1615)には鳥居成次が本社本殿・拝殿・幣殿を造営、寛永10年(1633)には谷村藩初代藩主秋元泰朝が「三国第一山」の扁額、寛永18年(1641)には富士山遙拝の大鳥居を造営、さらに慶安2年(1649)年には秋元富朝が拝殿を大改修(事実上の再建)、延宝6年(1678)と貞享5年(1688)には秋元喬知が社殿の修復、さらに随時、銅灯籠や絵馬(狩野常信筆)、太刀(銘・表:備州長船経家 文安二年二月日 附糸巻太刀拵)、富士山北面の画(狩野永真筆)の奉納を行っています。

北口本宮冨士浅間神社はその後一時荒廃しましたが村上光清が中興し、一般庶民にも信仰が広がるように富士講を結成し、享保19年(1734)から元文4年(1739)にかけて境内には数多くの社殿、堂宇を造営、それが功を成して江戸時代中期以降富士講が活発になり北口本宮冨士浅間神社の周囲には御師と呼ばれる宿坊が軒を連ねる程になりました。

古くから神仏習合し、境内には仁王門、三重塔、護摩堂、鐘楼など数多くの堂宇も存在していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により、仏教色が強い建物は排除され、その他の建物は神式用に名称変更する事で許されました。祭神:木花開耶姫命、彦火瓊瓊杵命、大山祇神。

北口本宮冨士浅間神社:上空画像

北口本宮冨士浅間神社は特殊神事も多く、毎年8月26・27日に行われる鎮火祭(特殊祭儀)は「日本三奇祭」に数へられる程の壮大な火祭りで「吉田の火祭り」として平成24年(2012)に国指定無形民俗文化財に、江戸時代前期に発生したとされる「太々神楽」は平成4年(1992)に山梨県指定無形民俗文化財にそれぞれ指定されています。平成23年(2011)には境内一帯が国指定史跡に指定され、平成25年(2013)には「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されています。

北口本宮冨士浅間神社は現在でも当時からの社殿、社宝を所持し多くが文化財指定され、富士山登山の北口の拠点として多くの参拝者、登山者が訪れています。北口本宮冨士浅間神社随神門は元文元年(1736)に造営されたもので、切妻、銅瓦棒葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門、外壁は真壁造板張り木部朱塗り、左右に随身像安置、江戸時代中期の神門建築として貴重な事から棟札1枚と共に平成29年(2017)に国指定重要文化財に指定されています。

【 日本武尊 】-北口本宮冨士浅間神社には、景行天皇40年(110)に東国を平定完遂後に当地を訪れ、富士山を遥拝し「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになり、その御言葉に従い「大塚丘」に浅間大神と日本武尊を祭ったと伝えられています。この由緒が正しければ足柄の坂本(相模国・神奈川県)から酒折宮(甲斐国・山梨県)に行軍する際は富士山の東側を経路として選択した事になります。

一方、甲斐国一宮浅間神社の創建は平安時代の歴史書である「日本三代実録」によると、貞観6年(864)から貞観8年(866)に富士山が大噴火し、占いによると駿河の浅間社の祭祀怠慢によるものだった事から、甲斐国側に改めて浅間神が勧請された旨が記載されています。この事から、甲斐国での具体的な富士山信仰は9世紀以降と考える方が自然と思われます。

又、江戸時代後期に編纂された「甲斐国志」によると当地が「諏訪ノ森」と呼ばれていた事について浅間神社が勧請される以前に諏訪神社が鎮座していた旨が記載され、さらに、戦国時代の天文17年(1548)に当地の領主だった小山田信有が上記の諏訪神社の神官に対して無断で富士山神事の新宮を建立する事を禁じ、永禄4年(1561)には武田信玄が諏訪ノ森の木材の伐採の禁制を発布してる事から、この時点で北口本宮冨士浅間神社は存在していないと推定されています。

スピリチュアルな雰囲気が感じられる境内
スピリチュアルな雰囲気が感じられる境内

信玄が同年の永禄4年(1561)に富士権現の社殿を造営した事が事実上の北口本宮冨士浅間神社の創建年とされ、以降、武田家や歴代領主の庇護により、富士山信仰の一大拠点となりました。特に江戸時代中期以降に富士山信仰が一般庶民にも浸透し、登拝者が爆発的に増大し、富士山の北口登拝口に当たる当社は大きく繁栄しました。

本社格である富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市宮町)の由緒で、江戸時代後期に編纂された「富士本宮浅間社記」によると、垂仁天皇3年には既に富士山信仰が始まっていたとされ、景行天皇の御代に日本武尊が東国平定の為に行軍し駿河国(静岡県中部・北東部)に差し掛かった際に賊徒の計略にはまり野火に囲まれると浅間大神に祈念して難を逃れ、賊徒を見事退治する事が出来ました。

尊は神意に感謝し山宮(現在の山宮浅間神社)に磐境を設け浅間大神を祀ったと記載されています。この事から江戸時代後期には富士山信仰と尊との伝承が確立していた事が窺えます。現在でも北口本宮冨士浅間神社の境内から数百m離れた「大塚丘」には日本武尊と浅間大神が祭られている祠が建立されています。

北口本宮冨士浅間神社の文化財
・ 本社本殿 附棟札1枚−元和元年−国指定重要文化財
・ 東宮本殿−永禄4年−国指定重要文化財
・ 西宮本殿 −文禄3年−国指定重要文化財
・ 太刀 銘備州長船経家−文安2年−国指定重要文化財
・ 本社拝殿・幣殿−元文4年−国指定重要文化財
・ 角行の立行石−富士吉田市指定文化財
・ 北口本宮冨士浅間神社のヒノキ−富士吉田市指定天然記念物
・ 太々神楽−山梨県指定無形民俗文化財
・ 北口本宮冨士浅間神社の大スギ−山梨県指定天然記念物
・ 北口本宮冨士浅間神社のスギ−富士吉田市指定天然記念物
・ 大塚山のヒノキ−富士吉田市指定天然記念物
・ 仁王門礎石−富士吉田市指定文化財
・ 神楽殿−国指定重要文化財
・ 手水舎 附棟札1枚−国指定重要文化財
・ 社務所 附棟札1枚−国指定重要文化財
・ 随神門 附棟札1枚−国指定重要文化財
・ 摂社福地八幡社 附棟札2枚−国指定重要文化財
・ 摂社諏訪神社拝殿−国指定重要文化財
・ 惠毘壽社及び透塀−国指定重要文化財
・ 本殿絵馬五面 付、絹本著色富士山北面図−富士吉田市指定文化財
・ 冨士乃日記−富士吉田市指定文化財

北口本宮冨士浅間神社:周辺駐車場マップ

八脚門を簡単に説明した動画

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ


北口本宮冨士浅間神社:ストリートビュー

北口本宮冨士浅間神社:社殿・境内・写真

北口本宮冨士浅間神社境内正面に設けられた威風堂々とした銅製鳥居
[ 付近地図: 山梨県富士吉田市 ]・[ 富士吉田市:歴史・観光 ]
北口本宮冨士浅間神社の歴史が強く感じられる参道 かつての繁栄を思いを寄せる事が出来る北口本宮冨士浅間神社仁王門跡の礎石 北口本宮冨士浅間神社参道沿いにある角行の立行石 北口本宮冨士浅間神社参道に建立されている石灯篭群と緩い石段 北口本宮冨士浅間神社参道を抜けた境内に建立された印象的な朱色の木製鳥居と石橋 北口本宮冨士浅間神社福地八幡社本殿
北口本宮冨士浅間神社参道中心にある随身門とその前に置かれた石燈籠 北口本宮冨士浅間神社随身門から見た境内の石畳み 北口本宮冨士浅間神社随身門先にある例祭で神楽が奉納される神楽殿 北口本宮冨士浅間神社境内にある参拝者の身を清める豪勢な手水舎 北口本宮冨士浅間神社手水舎に施された龍や獅子の精緻な彫刻 北口本宮冨士浅間神社手水舎にある龍の手水口から勢いよく流れる清水
北口本宮冨士浅間神社御神木の一つ太郎杉 北口本宮冨士浅間神社太郎杉越に見る歴史が感じられる拝殿 北口本宮冨士浅間神社拝殿右斜め正面を写した写真 北口本宮冨士浅間神社拝殿向拝唐破風に施された精緻な彫刻 北口本宮冨士浅間神社本殿左斜め前方から撮影した画像 北口本宮冨士浅間神社の豪華な造りの本殿を右斜め前方から写した様子
北口本宮冨士浅間神社東宮本殿正面を撮影した画像 北口本宮冨士浅間神社に建立されている瀟洒な西宮本殿の正面 北口本宮冨士浅間神社の長い歴史を見つめ続けた夫婦檜 北口本宮冨士浅間神社:諏訪神社拝殿 北口本宮冨士浅間神社:諏訪神社本殿 北口本宮冨士浅間神社の境内社群


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