加藤景忠:概要

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加藤景忠(保福寺)

【 概 要 】−加藤氏の出生は不詳ですが、藤原氏出身の氏族とされ、建暦3年(1213)に発生した和田義盛の乱が平定された後に甲斐国都留郡古郡(山梨県上野原市)に配された加藤兵衛尉が当地の加藤家の祖とも云われています(当初は甲州・玉穂町を領していましたが、信玄の命により当地に配されたとも)。その後、加藤氏は都留郡上野原を拠点として国人領主化しましたが、戦国時代の加藤虎景の代には武田家に従い武田信玄の旗本武者奉行を歴任し家臣団の中でも重きを成しました。特に上野原は甲斐国と相模国の国境に接し、後に甲州街道と呼ばれる大動脈が通過していた事から重要視され、加藤家には国境警備の重責が担わされていました。

虎景の跡を継いだ加藤景忠も武田信玄に従い、永禄5年(1562)には武田家と同盟者である北条家の要請に応じ援軍として派兵され、永禄12年(1569)には同盟が破綻した事から逆に北条領に侵攻し廿里合戦や三増合戦で功を挙げています。景忠が創建した保福寺(山梨県上野原市)が所有する「保福寺過去帳」によると天正3年(1575)が命日になっている事から長篠の戦いで討死したと推察されます。

一方、当地に伝わる伝承によると加藤景忠は天正10年(1582)の織田・徳川連合軍が武田領侵攻の際、当主である武田勝頼が天目山に向かった報を受け、救援の為に居城である上野原城(山梨県上野原市)を一族を伴い出撃したものの、北条氏に後背を突かれ討死したとも、勝頼の自刃の報を受けてから上野原城を脱出し相模国に逃亡したものの北条方の村山土佐守と交戦となり討死したとも、一揆に襲われ殺害されたとも云われています(東京都瑞穂町箱根ヶ崎には住民が討ち取られた加藤家を憐れんで「加藤塚」を築き篤く守られています)。菩提寺は加藤景忠が創建した保福寺で、保福寺の境内には景忠の供養塔が建立されています。

保福寺:写真
加藤景忠と縁がある保福寺 加藤景忠と縁がある保福寺 加藤景忠と縁がある保福寺 加藤景忠と縁がある保福寺



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