秋元富朝

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秋元富朝(生出神社)
【 概 要 】−秋元富朝は慶長15年(1610)に谷村藩の藩主秋元泰朝と大河内秀綱の娘との子供として生まれました。寛永11年(1635)に越中守に叙任され、寛永19年(1643)泰朝の死去に伴い秋元家の家督を継ぎ、谷村藩の藩主に就任、藩庁が置かれた谷村城陣屋)で政務を取り仕切りました。

寛永20年(1643)に良純法親王(後陽成天皇第8皇子)が配流され湯島(甲府市湯村)から下積翠寺村に境内を構えている興因寺(甲府市下積翠寺町)に移送される際に警備を行っています。寛永年間(1624〜1643年)、富朝は冬季に富士山に降り積もった積雪が春に一気に溶け出し濁流(雪代)となり田畑に甚大な被害を齎す事を問題視し、信州から赤松3万本を取り寄せ上吉田村、新屋村、松山村、下吉田村に命じて8町四方に植樹させています。現在は諏訪森と呼ばれ赤松の美林が評価され国有林となっています。

諏訪神社に子宝祈願を行い、見事念願城した事から社号を「生出神社」に改称、慶安2年(1649)には北口本宮富士浅間神社(山梨県富士吉田市)の前殿(拝殿:国指定重要文化財)を修造(事実上の再建)、慶安3年(1650)には河口浅間神社(富士河口湖町河口)の社殿を修復、富春山桂林寺(山梨県都留市)に寄進し諸堂を造営しています。明暦3年(1657)死去、享年48歳、清厳院殿雲山元伯大居士、菩提は秋元家の菩提寺である泰安寺に葬られましたが、跡を継いだ秋元喬知が川越藩移封になった際、旧領の菩提寺である光厳寺(群馬県前橋市)に改葬されています。

※ 明暦3年(1657)に発生した明暦の大火の際、江戸城まで類焼し本丸にまで火が及ぼうとしたところ、偶々居合わせた秋元富朝は大奥に詰める女性達を避難させようと果敢に火の中に入ったそうです。しかし、消火された後も富朝の姿が見えず大奥の焼け跡を調べても遺体を発見する事が出来ませんでした。すると、江戸の町では富朝は男子禁制の大奥に入った罪により女性達から集団リンチを受け見つからないよう遺体を処理されたのだろうと噂されたそうです。

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