【 概 要 】−法泉寺(甲府市)に葬られている武田信武は正応5年(1292)、又は嘉元元年(1303)に武田家9代当主である武田信宗の子供として生まれました。信宗が文保元年(1317)に死没すると信武は武田家10代当主と安芸国守護に就任し、鎌倉幕府の滅亡に関しては幕府方として行動しています。信武は南北朝時代に足利尊氏に従い大功を挙げ、甲斐国でも守護職を担った石和武田家を凌ぐ勢いとなり、石和流武田政義が南朝に属して康永2年(1343)に幕府方(北朝方)から攻められ討死すると、甲斐守護職も担うようになっています。
政治的にも尊氏の姪を正室として迎えるなど室町幕府内での高い地位を確立し幕府の引付衆(評定衆を補佐して訴訟・庶務を取り扱った役職。)にも就任しています。又、教養も深く作品が「新千載和歌集」や「新拾遺和歌集」に掲載されています。延文4年(1359)、又は康安2年(1362)に死去、甲斐国守護職は嫡男信成、安芸守護職は次男氏信が受け継いでいます。
法泉寺は戦国時代に武田信玄から篤く帰依された事で甲府五山(東光寺・能成寺・長禅寺・円光院・法泉寺)に選定され、特別の庇護を受けるようになり、跡を継いだ武田勝頼も同様に庇護を加えました。天正10年(1582)、織田、徳川連合軍により武田領侵攻により、多くの一族、家臣が離散した結果、少数での逃避が余儀なくされた勝頼は天目山の戦いで敗北後、自刃、その首級は京都の四条河原でさらし首となり、その後、武田家と関係が深い妙心寺(京都府京都市右京区花園妙心寺町:臨済宗妙心寺派大本山・武田信玄は臨済宗を篤く帰依し庇護していた。)に葬られました。
その際、法泉寺の住職だった快岳和尚は密かに勝頼と嫡男信勝の歯髪を妙心寺から貰い受け、同年、本能寺の変で織田信長が討たれ、織田家が衰退した時を見計らい法泉寺の境内にその歯髪を葬り、その塚の上に山桜の苗木を植えました。徳川家康が領主になると、事情を説明した結果、勝頼の菩提寺に定められ、勝頼の法名を「法泉寺殿泰山安公大居士」とし改めて墓碑が建立されています。法泉寺の境内に建立されている武田信武の墓碑と武田勝頼の墓碑は甲府市指定史跡に指定されています。
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