秋元喬知

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秋元泰朝(谷村城)
【 概 要 】−秋元喬知は慶安2年(1649)、下総佐倉藩の藩主戸田忠昌と秋元富朝の娘との子供として生まれました。秋元富朝に男子が居なかった事から早くから養子又は養子候補になっていたようで、明暦3年(1657)富朝の死去に伴い秋元家の家督を継ぎ、谷村藩(藩庁:谷村陣屋)の藩主に就任しています。延宝5年(1677)には奏者番、天和元年(1681)には寺社奉行、天和2年(1682)には若年寄、元禄12年(1699)には老中に昇進しています。幕政では主に江戸城や社寺仏閣の堂宇の造営や元禄大地震の復興に尽力し、正徳の治を支持、後年はかなりの実力者として一目置かれる存在だったようです。

加増も頻繁に行われ、元禄4年(1691)には5千石(下野都賀郡内)、元禄7年(1694)には7千石(河内八上郡内)、元禄13年(1700)には1万石(下野足利郡都賀郡内及び河内丹南丹北郡四郡内)、宝永元年(1704)には1万石(河内丹南丹北八上三郡)、正徳元年(1711)には1万石(武蔵国内)が加増され合計6万石で川越藩(埼玉県川越市)に移封となり谷村藩は廃藩となっています。正徳4年(1714)死去、戒名済川院殿義舟喬知大居士、光巌寺(群馬県前橋市総社町総社)に墓碑が建立されています。

秋元喬知の谷村藩(藩庁:谷村城)の実績としては新倉掘抜(河口湖〜新倉村)の開削や用水堰の開削、養蚕の奨励、機織の振興などを行っています。寛文5年(1665)に為替え仕法を発布、寛文8年(1668)には領内総検地を行い総高2万742石余となっています。宝永4年(1707)には甲州街道の諏訪番所を諏訪神社の麓から乙女坂の上に移設しています。一方、寛文7年(1667)に領内が大凶作になると一揆が発生し、寛文8年(1668)に減税を訴えた日向惣左衛門と宮下惣左衛門が打ち首になっています。さらに、天和元年(1681)にも代表者19人が谷村藩江戸藩邸に減税を訴えたものの7人が打ち首になっています。元禄3年(1690)には御茶壷道中が経路変更となり甲州街道を利用しなくなった為、勝山城に貯蔵する事を中止しています。

秋元喬知は社寺の保護も行い、寛文6年(1666)には北口本宮富士浅間神社(山梨県富士吉田市)の大鳥居を造営、寛文9年(1669)には桂林寺(山梨県都留市)に山林・雑木伐採の禁制を発布し、堂宇の修理費として茅と金子を寄進、寛文12年(1672)には北口本宮富士浅間神社に富士山北面の画(狩野永真筆)を寄進、延宝6年(1678)に北口本宮富士浅間神社の社殿の修復、延宝8年(1680)には北口本宮富士浅間神社に太刀(銘・表:備州長船経家 文安二年二月日 附糸巻太刀拵)を奉納、貞享5年(1688)には北口本宮富士浅間神社の大鳥居と社殿を修造し絵馬(狩野常信筆)を奉納、元禄10年(1697)には河口浅間神社(富士河口湖町河口)の鳥居を寄進し扁額(輪王寺宮公辨親王筆)を奉納、元禄14年(1701)には北口本宮富士浅間神社には銅灯籠を寄進、元禄15年(1702)には北口本宮富士浅間神社の大鳥居を修造しています。

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