谷村城(都留市)概要: 谷村城は戦国時代の享禄5年(1532)に武田家の家臣となった小山田信有が築いたのが始まりとされます。現在は市役所や小学校、裁判所などが建てられ遺構がなく城としての規模や構造を知る術がありません。背後にある勝山城が詰城とされ谷村城は小山田氏の居館として機能していました。
天正10年(1582)、織田・徳川連合軍の武田領侵攻により、武田勝頼は小山田信茂の誘いを受け居城である新府城(山梨県韮崎市)を捨て岩殿城(山梨県大月市)に向かいましたが、その途中に信茂が離反した事が遠因となり自刃に追い込まれ武田家は滅亡しました。信茂は織田家の重用されると思っていたようですが、最後の最後で主家を裏切った行為は織田信長には評価されず、甲斐善光寺(山梨県甲府市)で斬首となり小山田氏は没落します。
谷村城は甲斐国を任された織田家臣の河尻秀隆の支配下に入ったと思われますが、同年、本能寺の変により信長が自刃すると、武田家に思いを寄せた民衆が一揆を起こし秀隆は斬首されます。その後は旧武田領を巡る天正壬午の乱が発生、当地は小田原北条氏が支配下とした為、谷村城も北条方の拠点の1つとして機能したと思われます。徳川家と北条家の和睦が成立すると、徳川領となり、谷村城は都留地方の中心的存在だった為、重臣である鳥居元忠が配されています。
天正18年(1590)に徳川家が関東に移封になると豊臣系大名加藤光泰、浅野長政が城主となり随時修築や改築が行われました。長政時代には家老である浅野氏重が配され、領内の太閤検地を行う一方で詰城である勝山城を築城しています。
江戸時代に入ると鳥居成次が入封し谷村藩を立藩し谷村城には藩庁が置かれ城下町も整備されます。その後、跡を継いだ鳥居忠房が徳川忠長の改易に連座すると、秋元泰朝が入封し宝永元年(1704)、秋元富朝の後を継いだ当時の藩主秋元喬知が川越藩(埼玉県川越市)に移封されると谷村藩は廃藩となり谷村城は廃城。その後天領となり谷村城の一部か隣地に谷村陣屋が設けられました。
谷村城:上空画像
|