身延町(歴史)概要: 平安時代に入ると荘園開発が進み安元2年(1176)には施薬院領である飯野牧が成立しています。鎌倉時代に入ると甲斐源氏南部氏の一族である波木井氏が地頭となり、下山郷には下山氏、帯金地区には帯金氏が支配します。応永25年(1481)、武田氏の一族である穴山氏が下山に居を構えると河内領一帯に影響力を及ぼすようになり、戦国時代には武田家の有力家臣として地位を確立します。
天正3年(1575)の長篠の戦いで武田勝頼が織田、徳川連合軍に敗れると武田家が急速に衰退、穴山氏は逸早く武田家を見限り徳川家に与するようになり、天正10年(1582)の織田信長による甲斐侵攻の際にも積極的に協力し、武田家滅亡後も領土が安堵されます。
当時の領主穴山信君は下山城下や駿州往還(河内路)、湯之奥金山、下部温泉の整備、開発を行い領内も繁栄しましたが、本能寺の変の際、安土城(滋賀県安土町)に詰めており、本国へ戻る途中に土民により撲殺、跡を継いだ勝千代も早世し廃絶となりました。江戸時代に入ると天領(一時甲府藩)に属し上飯田代官支配、後に市川代官支配となり、民衆の行楽意識が高まると、身延山久遠寺への参拝者が急速に増え門前町として発展しました。
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