赤沢宿

  山梨県:歴史・観光・見所(ホーム)>赤沢宿(読み方:あかさわじゅく)

概要・歴史・観光・見所

赤沢宿(早川町:歴史)概要: 赤沢宿は身延山(標高1148m)山麓傾斜の緩い台地上に位置し、日蓮宗身延本山久遠寺と七面山(標高1982m)を結ぶ身延往還の宿場として発展しました。

集落としての成立年は不詳ですが文永11年(1274)に土着した旧家や、建治3年(1277)に日蓮宗に改宗した妙福寺がある事から鎌倉時代には既に集落が形成されていたと思われます。

当初は豊富で良質な木材を産出していた事から山師や檜物職人を生業とする人々の集落でしたが永仁5年(1297)日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登拝し七面大明神を勧請すると山頂までの登拝道に当たる為、宿泊所である旅籠の他、案内業や運搬業、駕籠人足なども発生し次第に発展したと思われます。

七面大明神(七面天女)は日蓮宗法華経の守護神であることから久遠寺と深い繋がりがあり、寛永17年(1640)徳川家康の側室で日蓮宗に帰依していた養珠院(お万の方)が女性で始めて七面山を登拝したことで女人禁制が解かれ広く民衆にも信仰されるようになりました。

特に江戸時代中期になると物見遊山が活発になり、身延講を称して久遠寺を参拝してから奥の院を詣でさらに身延往還と赤沢宿を利用し七面山登拝するといったルートが確立します。

敬慎院などの物資運搬の中継地で赤沢宿自体も消費地となった事から経済的にも発展しました。一般的な宿場町は明治以降に宿場制度の廃止と近代交通の発展により宿場町としては衰微しましたが、赤沢宿はある程度交通網が整備された事で全国から多くの参拝者を迎え入れる事になり昭和初期まで最盛期が続いたようです。

散策したくなるような赤沢宿の町並み
赤沢宿

太平洋戦争後は娯楽の多様化や麓までの車道整備などで車を利用する事で日帰りで七面山まで行けるようになった為、赤沢宿で宿泊する登拝者や観光客は激減し急速に衰退しました。赤沢宿は地形的な制約や、後継者問題などから近代化が図られず、結果的に現在でも当時の良好な景観が残され、石畳は観光客の恰好な散策道となっています。

【身延山】−身延山(標高:1153m)は古くからの霊山として信仰の対象、修行場だった場所で、山頂には日蓮宗総本山である久遠寺の奥之院である思親閣が建立されています。日蓮宗の開祖で久遠寺を開山した日蓮上人は当地に在住した9年間、西谷の草庵から身延山の山頂まで約50丁の山道を登り詰めて、房州小湊(現在の千葉県鴨川市)にいた両親や師である道善房の追善供養を行ったとされ、日蓮が死去した翌年に弟子達が久遠寺の奥之院として思親閣を創建しています。

現在残されている思親閣祖師堂は入母屋、本瓦葺、妻入、正面1間向拝付、身延町指定文化財に、日蓮が両親と道善房の追善供養の為に手植えしたと伝わる杉の大木は身延町指定天然記念物に、元政上人埋髪塚は身延町指定史跡にそれぞれ指定されています。

赤沢宿:上空付近地図

【七面山】−七面山(標高:1982m)は、日蓮宗の開祖で日蓮宗総本山の久遠寺を開山した日蓮上人の高弟日朗上人が開いたと伝わる霊山で、日蓮宗の守護神や鎮守とされる七面大明神(七面天女)が祀られている事が名称の由来となっています(別説では大きく崩壊した崖が7箇所ある事から=ナナイタガレノタケ→七面嶽→七面山に転じたとも)。山頂付近に境内を構える敬慎院は七面山の信仰の中心的な存在で七面大明神(七面天女)を祀ると共に宿坊でもあり現在でも数多くの登拝者を迎え入れています。

敬慎院の随神門の正面の丁度中央付近に富士山の山頂が納まるように計画的に配置され、七面山と富士山を意識的に関連付けさせるような工夫が見られ、本堂も荘厳な雰囲気を感じさせます。元々は女人禁制の山でしたが、徳川家康の側室で日蓮宗を篤く帰依した「お万の方」が麓の白糸の滝で身を清め、女性としては始め登拝した事で、女人禁制の禁がはずれ、それ以降は特に女性達からも信仰されるようになっています。

【 赤沢宿の講中宿 】−江戸時代後期から明治時代にかけてが赤沢宿の最盛期だったとされ、9軒の旅籠(恵比須屋、玉屋、両国屋、大黒屋、萬屋、喜久屋、信濃屋、清水屋、大阪屋江戸屋、このうち大阪屋と江戸屋が庄屋を歴任し赤沢宿を開いた祖でもあります。)には連日多くの参拝客が訪れ客室に泊まれない客を沢山いたと伝えられています。

戦後になると信仰者の減少や交通網が整備された事で登山口まで車で登る事出来るようになった事から、赤沢宿を利用する人が減少し、さらに跡継ぎ不足から旅籠が次々と閉鎖に追い込まれ、2006年では1軒となっています。

【 赤沢宿の建物の特徴 】−建物は江戸時代末期(主屋で建築年代が明確なものとしては寛政4年:1792年が最古)から大正時代に建てられたものが主で、特に古式を残している主屋は座敷の外側の2方向に土間を設け多くの参拝者が一斉に出入り出来る工夫がなされ、2階街道側には縁側が設けられ、それぞれの部屋へ移動できるようになっています。

外観は切妻、板葺き石置き屋根だったものが時代が下がるに連れ鉄板葺に葺きかえられ、外壁は縦羽目下見板張、軒先には「講中札(マネキ札)」と呼ばれる標示が掲げられ、現在も大阪屋96枚、恵比須屋82枚、大黒屋35枚などが往時を偲ぶことが出来ます。

観光地として整備されている赤沢宿の町並み
赤沢宿

【 赤沢宿の町並みの特徴 】−赤沢宿の町並みは一般的な宿場町と異なり、町割りなど都市計画されておらず、さらに山間の急斜面という地形に作り上げられていることから、細く曲がりくねった街道や階段に古民家が軒を連ねるといった独特の町並みが形成されました。古民家も町屋建築や旅籠建築とも違う大型な講中宿(明治以降は旅館)で町並み景観に大きく寄与しています。

特に、明治時代以降の近代化や戦後の高度成長の開発なども殆ど恩恵が無かった事から旧旅籠による町並みや敷地割り、石垣(ゴボウ積み)、石畳、石段など当時の赤沢宿の雰囲気が随所に残されています。

赤沢宿は山深い急斜面を開発し講中施設を生業として発展した極めて稀な存在で、景観の構成要素として伝統的建造物(建築物)は主屋27件、主屋旅館5件、旅館1件、付属屋12件、土蔵7件、社寺3件、物置9件、その他20件、合計84件。伝統的建造物(工作物)は石塔6件、石碑12件、石祠 6件、墓石群11件、門2件、その他2件、合計39件。環境物件は石垣102件、湧水地1件、古道7件、樹林1件、樹木1件、その他5件、合計118件。

面積25.6haが種別「山村・講中宿」、「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの」との選定基準を満たしている事から、名称「早川町赤沢重要伝統的建造物群保存地区」として平成5年(1993)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

又、赤沢宿の石畳(延長340m、幅員2.8m)は観光客が散策出来るように整備され名称「やすらぎの参道」として平成元年(1988)に建設省(現在の国土交通省)による「手づくり郷土賞」の「いこいとふれあいの道30選」部門を受賞しています。

赤沢宿周辺駐車場マップ(地図)

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-山梨県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板-早川町教育委員会


赤沢宿:ストリートビュー

赤沢宿:町並み(景観)・写真

[ 付近地図: 山梨県早川町 ]・[ 早川町:歴史・観光・見所 ]
赤沢宿の町並みに張めぐらせれている石畳から見た青々とした山並みを撮影した写真 赤沢宿の苔むした石垣と景観に溶け込みような石畳と旅館が連ねる町並み画像 赤沢宿にある旅館の2階から当時の繁栄を伝える看板と風情ある町並み写真 赤沢宿の旅館の前にある個性的な植栽と石垣の隙間に生える力強い草草と町並み写真 赤沢宿の石畳から見る旅館の切妻、入母屋、寄棟の屋根が連なっている町並み画像
赤沢宿の懐旧の情が感じられる町並み景観写真 赤沢宿の勾配がきつい石畳の坂から見上げた懐かしい感情がよみがえる町並み景観の画像 赤沢宿に残るノスタルジックな看板越に見る町並みと山々の風景を撮影した写真 赤沢宿の生活感が感じられる町並みの写真 赤沢宿に残る長い板塀と遠くに見える大型旅館が形成する町並みと景観の画像
赤沢宿の石畳の先に見える旅館の門と感慨深い旅館の引戸と看板の写真 赤沢宿の石垣からひょっこり顔を出す古民家の屋根の写した画像 赤沢宿の石段に生える雑草越に見えるノスタルジーな旅館と土蔵の町並み 赤沢宿の高台から見下ろしたノスタルジックな町並み景観を撮影した写真 赤沢宿の旅館の屋根と山々の緑が折り重ねっている町並み景観画像


※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「山梨県:歴史・観光・見所」は「山梨県の歴史」、「郷土資料辞典−山梨県」、「日本の城下町−関東」、「城郭と城下町−関東」、「甲州街道」、「パンフレット」、「案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。※プライバシーポリシーはこちらです。