石和陣屋(笛吹市)概要: 石和陣屋は山梨県笛吹市石和町市部に位置していました。案内板によると「 寛文元年(1661)甲府宰相徳川綱重の時、建てられた陣屋で綱重は江戸城桜田邸に居住したので代官所として使用された。享保9年(1724)柳沢吉里が大和国郡山へ国替えの後、慶安3年(1867)まで甲斐国のおよそ3分の1を支配する江戸幕府の出先機関であった。代官所とは、主君にかわって官職を代行する役所のことで、柳沢吉里の移封後は、江戸幕府の直轄地となったので、幕府の役人が年貢収納や民政をつかさどった。 笛吹市 」とあります。代官を勤めた平岡次郎右衛門和由、勘三郎良辰父子の実績としては浅尾堰の開削とそれに伴う浅尾新田の開発に尽力した事で知られ、浅尾新田石塔庵跡地には良辰の供養塔、浄居寺の本堂には両名の木像が安置されています。
幕府が政権を返上すると慶応4年(1868)には石和県(都留郡107村・山梨郡26村・八代郡52村)が立県し石和陣屋がそのまま県庁として利用されますが、立県の2箇月後には甲斐国内にあった石和県と、市川県、甲府県が合併し甲斐府が成立した事を受け石和県が廃県となり石和郡政局が設置され明治2年(1869)に甲府県庁に統合しています。
現在、石和陣屋跡は南小学校の敷地となり唯一の遺構として表門が明治7年(1874)に八田家(山梨県指定史跡)の表門として移築されています。石和陣屋の跡地は貴重な事から笛吹市指定史跡に指定されています。
【 石和陣屋表門:概要 】-八田家の表門は江戸時代初期の寛文元年(1661)に石和代官所を造営した際、当時の代官である平岡勘三郎良辰が石和陣屋表門として設けたものです。明治維新後に石和陣屋が廃されると払い下げとなり明治7年(1874)11月に八田家(山梨県笛吹市石和町八田)の表門として移築されてました。表門は亀甲積の石垣に設けられた長屋門形式の建物で、腰壁は石張、外壁は土壁白漆喰仕上げ、屋根は寄棟、桟瓦葺き、中央部が門扉が配され、上部の屋根が左右の長屋部の屋根よりも高く構成されている為に特徴ある建物となっています。
石和陣屋:上空画像
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