甲斐国一宮浅間神社(笛吹市)概要: 甲斐国一宮浅間神社は山梨県笛吹市一宮町一宮に鎮座している神社です。甲斐国一宮浅間神社の創建は垂仁天皇8年(紀元前90)に現在の山宮神社の境内付近に木花開耶姫命・大山祇命・瓊々杵命の3神が勧請されたのが始まりと伝えられています。社伝によると貞観6年(863)の富士山が大噴火し周辺が大きな被害を受けた為、、貞観7年(864)に噴火を鎮める為に木花開耶姫命の分霊を現在地に遷座し祀られるようになっています。
一方、三代実録によると噴火を鎮める為に、貞観7年(864)に伴直真貞を祝、伴秋吉を禰宜として遣わし、八代郡家以南に浅間明神(花開耶姫命の分霊)の祠が建立されました。しかし、中々噴火が収まらなかった為、同年に壮麗な社殿が造営されると治まった事から官社に列する事になり、さらに同年に山梨郡にも浅間明神の社殿が造営されています。
その為、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳で名神大社として記載され後に甲斐国の一宮として格付けされている神社は山梨郡に境内を構えている当社の他、八代郡に鎮座している一宮浅間神社(山梨県西八代郡市川三郷町)、都留郡(旧八代郡の一部)に鎮座している河口浅間神社(山梨県南都留郡富士河口湖町)がそれぞれ自称しています。
ことの真偽は不詳ですが、当地は甲斐国府が近かった事から国の祭事などを司るようになると、歴代の為政者や領主に崇敬されるようになったと思われます。甲斐国府の正確な位置ははっきりしませんが、当社の周辺には甲斐国分寺跡や甲斐国分尼寺跡、甲斐奈神社(甲斐国総社)など当時の中心施設の史跡が点在し、地名「国衙」付近にあったという説があります。
建久5年(1194)には源頼朝が社殿を造営し、天文19年(1550)には武田信玄が般若心経が奉納(後奈良天皇が全国の一宮に安寧祈願の為、般若心経を奉納することを企画したもの。)、同じく永禄元年(1558)に摂社山宮神社の社殿を造営されています(山宮神社本殿:一間社隅木入春日造、檜皮葺、正面向拝付、国指定重要文化財)。
天正10年(1582)に武田家が滅ぶと、その後に領主となった徳川家から庇護され天正年間(1573〜1592年)には徳川家康が社領200貫文を寄進、江戸時代に入ると幕府が庇護し、3代将軍徳川家光が朱印状234石を発給、歴代将軍はそれに習い社領を安堵します。古くから神仏習合し別当寺院として神宮寺が祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され明治4年(1871)に国幣中社に列しています。
現在の甲斐国一宮浅間神社拝殿は寛文12年(1672)に建立されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行7間、梁間3間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り(正面1間分が柱のみの吹き放し)、江戸時代初期の社殿建築の遺構として貴重な事から笛吹市指定文化財に指定されています。
本殿は入母屋、銅板葺き、平入、外壁は真壁造り板張り。神楽殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行3間、張間1間、外壁は柱のみの吹き放し。
甲斐国一宮浅間神社随神門(神社山門)は寛政元年(1789)に再建されたもので、切妻、銅板葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門、外壁は真壁造り板張り(正面1間分が柱のみの吹き放し)、左右に随身像安置、神仏習合の名残と思われます。祭神:木花開耶姫命。
甲斐国一宮浅間神社の文化財
・ 紺紙金泥般若心経-天文19年-後奈良天皇「般若心経」-国指定重要文化財
・ 摂社山宮神社本殿-永禄元年-一間社春日造,檜皮葺-国指定重要文化財
・ 国次の太刀−武田信玄奉納,長さ:104.0cm,反り:4.5cm−山梨県指定文化財
・ 一徳斉助則の太刀-明治23年,長さ:115.1cm,反り:2.0cm-山梨県指定文化財
・ 夫婦梅-陰陽二花相寄って一顆を結実する,子宝-山梨県指定天然記念物
・ 拝殿(附:旧材1枚)-寛文12年-入母屋,銅板葺き-笛吹市指定文化財
・ 武田信玄公自詠の短冊(うつし植る初瀬の花の・・・)−笛吹市指定文化財
・ 武田信玄公の條目-戦国時代,信玄が発布した規則-笛吹市指定文化財
・ 参拾六歌仙-元禄7年(1694)奉納-笛吹市指定文化財
・ 大神幸祭宝暦絵巻-大神幸祭の様子が描かれた絵図-笛吹市指定文化財
・ 山宮神社の夫婦杉-推定樹齢300年以上,樹高30m-笛吹市指定天然記念物
甲斐国一宮浅間神社:上空画像
【 ポイント 】甲斐国一宮浅間神社の鳥居や神門はやや方向がずれるものの富士山のある南方に向いています。一方、社殿は東方に向いているので90度ずれている格好となっています。個人的な解釈では本来の御神体である富士山と社殿はライン的にも密接な関係性を持たせるようにするはずですが、甲斐国一宮浅間神社ではそうなっていません。元々は富士山と直線で結ばれるように配置されたものの、後年に替えられたのか、それとも最初から配置には意味を持たせなかったのかは分かりませんが、同じく甲斐国一宮を主張する河口浅間神社の社殿は西南西、市川三郷の一宮浅間神社は西を向いている事から富士山信仰での社殿の向きはそれ程重要視されていなかったのかも知れません。
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